【アートな匙加減】目に見えぬ「気」の薬効(2010年8月22日 産経新聞掲載)

コンセプトに高い精神性があり、体力・気力が充実しているとき、画面に向かうと不思議な「気」のような、えたいの知れない「塊」が絵筆の先から描く絵の中にすうっと入ってゆくのが分かるときがある。

 この瞬間を感じ取ったときの絵は、作品がピンと立ち上がり、それ以後どのような形や色彩を手当たり次第に描き込んでも絵が崩れるということもない。そして完成するときまで間違いというものもなく、無意のうちにすべてより良い方向に作画が積み増されていく。描く醍醐味(だいごみ)が一筆ごとに増し、万全のバランスが生まれてゆく。

 まさに、食事をしている間中、上等なワインが終始、良い方向に上りつめていく、あの歓喜にも似ている。画家として生まれた幸運を感じないわけにはいかない。

 しかし、苦渋に満ち、袋小路に入り込み、二進(にっち)も三進(さっち)もいかなくなるときもたまにはある。だが、粘り強くあきらめなければ、この難産な子(絵)が重厚な輝きを増すこともなきにしもあらず、である。

 このようにして、常に私は描くことの喜びの中で生かされているために、世間さまが大騒ぎをしていても、重大な危機にさらされていようとも、気付くことに後れを取ることがしばしばなのだ。

 ところが、絵を描き終えた後、昨今のわが国の姿を冷ややかに細めた目で見ていると、口当たりの良い文言が一瞬、良い方向に上り詰めていくように思えるが、あっという間に青ざめて、急激に味わいが失速してゆく。平凡な、悪酔いをするワインに似ているようにも思える。

 これらのワインは生まれた土壌が悪いのか、気候や熟成に無理があったのか、あるいは酸化防止剤のいたずらか、幾重にも複雑な理由があるのだろうが、まずその種に「気」というものが入り込んでいなかったともいえるのではないだろうか。

 「気」とはいかにも非科学的な物言いだが、満足感や愛情、細胞一つ一つの喜びといったことが病を治癒する大きな力を発揮するように、数値にも表せない、目にも見えない「気配」といった代物こそ、今日の学問や政治の中で最も大切なことではないだろうか。

 「ミラーニューロン」という神経細胞がある。自分と同じ行動をしている他者を見たときに、ミラー(鏡)のように同じ反応をすることで、例えば長年暮らしている夫婦の顔が似てくるのも、ミラーニューロンの影響という。

 ビタミン剤のような画家の気力とともに明るく元気な色彩がバランス良く配色され、調和がとれ、時代の進取の気性と多少の苦み、精神的な高みが描き込まれた絵を、シャワーを浴びるように毎日見ていたとしたら…。見る人の目から脳に入っていく絵画の光は、やがてその人の細胞を元気ある方向に揺り動かすという薬効がある。

 同様に国のトップが毎日、新聞やテレビに現れて発する言葉や、目の光が何百万人という国民にミラーニューロンと同じように伝搬しているに違いない。政治家の発言によっては、国民のほとんどがインフルエンザのような病に冒されてしまう恐れがあると危惧(きぐ)するのである。

 

 

新聞

■『第2回絹谷幸二賞』(2010年3月7日 毎日新聞)

 

■『アートな匙加減』(2009年1月~ 産経新聞掲載)

 絵も野球も勝負は3センチ(2009年1月18日)

 画餅のすすめ(2009年2月20日)

  画家の目は鵜の目鷹の目(2009年3月21日)

 アートパフォーマーは誰か(2009年4月20日)

 水と油の話(2009年6月24日)

 エコは美術とともに(2009年7月29日)

 古代の夢たどる旅(2009年8月26日)

 『地』のリスクマネジメント(2009年11月6日)

 『ちりもみじ』とならぬよう(2010年1月15日)

 素直な『笑顔』が時代の薬(2010年2月21日)

 暗い時代も『善し悪し半分』(2010年3月21日)

  「こころの錦」大切に(2010年4月18日)

  躍動感を失った日本(2010年5月23日)

  空想力と想像力の源泉(2010年7月1日)

   目に見えぬ「気」の薬効(2010年8月22日)

 

■『絹谷幸二展』(2008年9月2日 朝日新聞掲載)

 

■『こころの玉手箱』(2008年2月 日本経済新聞掲載)

第一回 「スキューバダイビング~海底の不思議と恐怖と浮遊感」

第二回 「仏像~美意識育んだ奈良の古刹~」

第三回 「ゴンドラの変速機~ベネチアで過ごした新婚時代~」

第四回 「鳥海青児先生の形見のイス~うまくなっちゃいけないよ~」

 

■『ハローペット』(2008年1月9日 東京新聞掲載)

 

■『春・希望』(2007年1月 日本経済新聞掲載)

 

■『人間発見』(2006年5月 日本経済新聞掲載)

 第一回 「色彩と夢の力は元気の源①」

 第二回 「色彩と夢の力は元気の源②」

 第三回 「色彩と夢の力は元気の源③」

 第四回 「色彩と夢の力は元気の源④」

 第五回 「色彩と夢の力は元気の源⑤」

 

 

■『絵空事十選』(2004年11月 日本経済新聞掲載)

第一回 フランシスコ・デ・ゴヤ「巨人」

第二回 ジョット「キリスト伝 最後の審判」

第三回 マサッチオ「楽園追放」 

第四回 ピカソ「三人の音楽士たち」

第五回 デ・キリコ「放蕩息子」

第六回 シャガール「ワイングラスを持った二人の肖像」

第七回 アントニオ・ガウディ「グエル公園」

第八回 イヴ・タンギー「嵐」

第九回 尾形光琳「風塵雷神図屏風」

第十回 久隅守景「夕顔棚納涼図屏風」

 

 

 

【アートな匙加減】空想力と想像力の源泉(2010年7月1日 産経新聞掲載)

 元巨人軍監督の川上哲治氏の少年野球教室ではないが、私も全国各地の小中高校を訪ねる絵画の出前教室を行っている。

 レーガン米元大統領はソ連との冷戦時に理数系の授業を増やし、絵画・音楽の授業数を短縮した。当時のニューヨーク近代美術館館長のガンツ女史はニューヨーク在住の著名な芸術家80人と財団を創設し、欠落した芸術分野の授業を補完するための出前授業を始めた。平成5年にニューヨークの高島屋ギャラリーで個展をしていたこともあり、この事業に招聘(しょうへい)され、マンハッタンの小学校3校を訪れて絵を教えた。

 子供たちは異国の芸術家に大変興味を示し、活気ある授業を行うことができた。このとき、芸術がいとも簡単に言語や国境を飛び越える自由の翼を持っていることを学んだ。それに、芸術家と美術館との素早いタッグによる授業の質の向上と、欠落した部分に手を差しのべるスピード感に感激したものだ。

 帰国後、日本の芸術専門の先生の採用数が、全国の小中高合わせて年間40人にも満たないことを知り、文化庁にその補完として出前授業を提案した。日本芸術院がこの事業を受け入れ、現在、会員有志による絵画芸術の出前授業が実行されるようになった。

 昨年、北京に行ったときは、在北京日本人学校の小学生高学年の授業を行った。大使館職員にも手伝ってもらい、2人一組で友達の顔を描いた。和やかで活気ある図画教室となった。

 母校の奈良の学校を皮切りに、先日は岐南町立東小学校(岐阜県)を訪れた。150人程度の小学生を指導し、皆は明るく楽しく絵を描いた。まず絵の具の色彩の作り方を教えたが、これは画学生や同業者には決して教えない、私の“秘法”。参観の先生方もこれにはビックリし、出来上がった絵は一瞬にして150人の熟練色彩画家の作品となった。

 学校は頭を使って勉強する場所だが、たまに触媒のような業の体験授業も必要だ。生徒たちの目が光を帯び、自信が満ちた表情やセンスを引き出すことができる。色彩を調合するだけで、かくも複雑で滋味あふれる深さが出るものか、ということを理科の実験とは異なる場所で行い、この味わいが家庭科の料理で出す「味」と共通することを生徒たちに話した。

 甘さや辛さ、酸っぱさなどの調合と色彩の調合は何一つとして異なるところはない-と話すと、特に女子児童の目がキラキラ光った。教えている私までも子供たちに接していると豊かで幸福な気持ちになってくる。

 今後も、7月に四国・松山から車で1時間の場所にある全校児童数48人の久万高原町立明神小学校(愛媛県)や浜松学芸高校(静岡県)、10月は星野学園中学校(埼玉県)と遠出が続く。

 かつて私が子供のころ、学業の傍ら訪ねる図画や音楽の先生の部屋が楽しいたまり場、避難場所であった。今日の行き場のない児童・生徒たちはどうなのだろう。やはり芸術と音楽が心のよりどころになりはしないか。

 歴史が教えているように、経済、法、科学とあらゆる分野で空想力と想像力の源泉である芸術が語られれば、わが国も飛躍的に繁栄すると思うのだが。(きぬたに こうじ)

 

【アートな匙加減】躍動感を失った日本(2010年5月23日 産経新聞掲載)

 今月1日に開幕した上海万博。その中にある「日本の創るよい暮らし」をテーマとした日本産業館は古い造船所を再利用したもので、壁面を上り下りするロボットをテレビで見た方もいるだろう。そこで天井画を3カ月かけて手がけた。富士山の日の出を描いた「日月天飛翔」で、電飾(LED)を使っているため地上20メートルできらきらと輝いている。

 4日からは中国の現代アートを紹介する「改造歴史2000-2009年的中国新芸術」展が北京で開幕し、こけら落としに出席した。ともに電飾の広大さと、美術展会場の大きさは日本人の感覚を超えるもので、圧倒されるものがあった。国が広ければかくのごとしと思えるほどで、美術展では、世界の画友や批評家、画商らを一堂に集めた華々しさに圧倒された。晩餐(ばんさん)会も出色で、中国の美術史などをスクリーンいっぱいに紹介し、大勢の若手芸術家を一堂に舞台に上げ賞状や記念品を一発で授与して終了した。

 その後の宴会ではオーケストラが入る会場に2千人を超える出席者が着席し、フルコースをいただいた。画人の集まりとしては破格の扱いだ。自国の画人たちをかくも優遇し、国際的に紹介し、この展覧会の分厚い画集まで作る。30年前の中国の美術事情を知る私にとって青天の霹靂へきれき)のような変化であった。

 さらに、驚いたのは、北京の大山子地区にある「798」大山子芸術区。多くの空いた国営工場をギャラリーやアトリエにしている場所で、世界中の幾百もの画人や画商が入り、観光客を多く集めている。

 大変高額な値段で絵を売っているのは日本のバブル期を思いださせるが、自国の作家を宣伝し、彼らを世界の大画家に仕立て上げているそのシステムと規模は、インターネットなどでも怒濤(どとう)の勢いで世界を駆けめぐっている。

 私が会った方力釣(ファン・リジュン)という画家は、有名なレストランを数軒経営し、店の前には新車のベントレーがドンと鎮座していた。中国直属の国立美術大学「中央美術学院」(北京市)の教授たちも同様で、自前の会社を数社持ち、商売にもそのエネルギーを注いでいる。

 このような躍動感は、かつてわが国にも見られた。だが、近年は政府の懐から出る研究費や助成金をあてにしている人が多く、何とも情けないと言わざるを得ない。

 また、日本の政治も後ろ髪を引っ張られて何事もなし得ず、国民はそれを見てジリジリし、前に進む気力をそがれそうな今日このごろではある。

 「コンクリートから人へ」として公共事業費を大幅削減する鳩山政権だが、これでは安心して住める都市もできず、不燃の都市を構築し、一人でも業火から守るということも、この体質ではままならない。バラックのような都市は、大災害時に大きな怠惰の罪を受けるに違いない。

 事業仕分けとやらで節約することに越したことはないが、かくなる上はわれわれ一人一人が自身のエゴをかなぐり捨てて、何が人を幸せにするかの大キャンペーンを張り、自らの手で自らを守るというところまでに、日本は来ているのかもしれない。(きぬたに こうじ)

 

【アートな匙加減】「こころの錦」大切に(2010年4月18日 産経新聞掲載)

 新年度が始まり、ランドセルを背負った新小学生や、スーツ姿の新入社員の姿を見かけるようになった。みな、希望と不安で胸がいっぱいだろう。

 人には誰しも自身に対する応援歌のようなもの、またはその人となりを表す持ち歌がある。若く貧乏を友として絵を描いていた画学生のころ、私が画面と対峙(たいじ)してふと口について出る応援歌に、「ぼろは着てても こころの錦」と歌う水前寺清子さんの「いっぽんどっこの唄」があった。

 もう今の学生たちには見られないが、絵の具だらけの作業服を着て、体はやせ細り、希望に燃える目だけが大きくギョロリと光っていた。大学の近くにある東京・上野の動物公園で飼われていたシロクマ同様、近辺をうろうろしていたものだ。わが国の経済が急成長を遂げ、大きく怒濤(どとう)のように様変わりしていく中で、絵などという絵空事の世界でうつつを抜かしているわれわれは、社会から遠く取り残されていくという恐怖にさらされながらも、「こころの錦」とやせ我慢していたのかもしれない。

 さりとて、当時はもし極限まで貧した場合、アルバイトや仕事がないわけではなかった。手先の器用さを利用し、陶芸で茶碗(ちゃわん)でも作るなど生きていくすべはあった。しかし、当時の直接の師であった東京芸術大学壁画科の島村三七雄(みなお)先生からは、厳しくご法度が出されていた。「手には触覚がある。画業が確立するまでは、生活が比較的成り立ちやすい陶芸には手を染めてはいけない」と。

 手で触れることができない「絵」という視覚だけを頼りにイメージの世界を旅する者にとって、ヌルヌルとして心地よい手触りが現実に近づくということなのか。生活が成り立つ確率が高いために、苦難が待ち受ける画業から離れることを戒めるためなのか。または、アルバイトをするよりもいちずに絵を描けということなのか。とにかく厳しいご法度ではあった。

 実は、このご法度を一度だけ破ったことがある。それは、生活は苦しかったが結婚をするときだった。引き出物を買うお金がなく、当時親しくしていた、数学者武蔵大学学長の正田建次郎先生のお宅に手作りした陶器の窯で引き出物のぐい飲みを作り、皆さまに持ち帰ってもらった。

 焼き上がって夕闇にチリチリと冷めていく音を聞きながら、この感覚は絵画にはない魅力で、絵を描く者にとってはやはり手を出してはいけない世界だと肝に銘じたものだ。

 絵を描くことと陶芸は同じ芸術の世界ではあるが、ひとつのことを極めようとするとき、手を出してはいけない魅力的なことはたくさんある。

 野球をしていて一打逆転の場面に打席に立ったとしよう。一球を打ち損じないためには、球筋を一点に絞り、あえてストライクを悠々と見送る勇気も実は大切なことだともいえる。

 新たなスタートを切ったみなさんは、これから巨大な波にのみ込まれることもあるだろう。そのときは自分の立場を見極めた行動をとる一方で、剛速球がきてもこれに立ち向かう勇気をもってほしい。そしていつも「こころの錦」、自分の心を大切に。(きぬたに こうじ)

 

【アートな匙加減】暗い時代も「善しあし半分」(2010年3月21日 産経新聞掲載)

きょうは春分の日。もうすぐ新年度でもあり、何か楽しい話題はないものかと探してみたが、一向に見つからない。世間には暗い話やおぞましい事件が山積で、われわれの頭もどうやらそれらのニュースに洗脳され、芯(しん)から明るくなれない体質にならされているのかもしれない。

 わが国の体質には、「善しあし半分ずつ」という習性がある。島国に生まれ育ち、徳川300年のしつけがいまだに効いていると思ってもよい。向こう三軒両隣に注意して過ごす連帯責任の体質が、縮こまった社会の基を作ったか否かは、社会学者でもない私には不明だ。しかし、身を縮めて生きる過ごし方は、島内の平和をつくってきたともとれるし、バネのように今後の伸びしろがあると良い方に理解してもよい。ここで大切なのは、どのような苦難を前にしても悪く悲観的にとらえないことの方が大切だということだ。

 酒は体に悪いことばかりではなく、百薬の長でもあり、多少深酒してもたまには血液を新たに洗うこともある。せき止めダムのように、水を少しずつ流していては、川が一見、清流のように見えても、石を転がし川を洗い、積年のアカやぬめりを取り再生することにはならない。

 政治や経済においても、この苦しいときこそチャンスであり、待ってましたとばかりの気風でそのときの状況を自在に活用するに越したことはないだろう。かつての1930年代、米国のフーバー大統領は苦しむ絵描きに塩を送り、大いに絵を描かせたと聞く。社会は大変苦しいときだったが、絵描きは本来、社会とかけ離れているため生活は苦しい。絵を描くことなど絵空事の世界だ。何の役にも立たないと思われがちだが、わずかな絵の具代とキャンバスで夢を画布に写し出せる魔法のような楽しさが絵の世界にはある。

 私とて学生時代、自身の内なる不況と貧しさは並大抵のものではなかった。かなりの瀬戸際が続いたが、一度たりとも生活が苦しいと思ったことはない。画中に熱中していれば、たとえそこに砲弾が飛んでこようと、自由の翼が画面の至る所に存在し、百万通りもある色彩の配列、調子、量感や質感、動き、空間の奥行きや創造上の新発見にうつつを抜かすことができるからだ。

 かつてフーバー大統領が行った画家への救済と投資という創造の夢は、その後のアメリカン・アートと米国の国力の飛翔に目には見えない希望と活力を与えたのである。

 時は春、すべての樹木は冬の寒風から目覚め、再生し、鳥は歌い、水はゆるむ。

 ハード面は、ばらまき政治のおかげでほぼ整った。これからはアートやミュージックといったソフト面の充実に期待したい。例えば旅行をするにしても、その旅が旅行者にとっていかに楽しいものだったかと思わせる術が必要だ。

 出発前から「列を乱さずに並んでください」とか、「危ないですから注意してください」とマイクで再三がなり立てているようでは、その会社の責任を回避しようという浅はかさばかりが目立ち、楽しさに水を差すようなものだ。

 そこにミュージックが流れ、花や絵があればなお良いことだろう。(きぬたに こうじ)

 

第2回絹谷幸二賞 【岸桂子】(毎日新聞 2010年3月7日 東京朝刊)

特集:第2回絹谷幸二賞 絹谷幸二賞・大谷有花さん/奨励賞・小沢さかえさん

 若手画家を応援し、具象絵画の可能性を開くことを目的にした第2回絹谷幸二賞(毎日新聞社主催、三井物産協賛)の受賞者は、神奈川県相模原市の画家、大谷有花(ゆうか)さん(32)▽奨励賞は京都市の画家、小沢さかえさん(29)に決まった。贈呈式は17日、東京都千代田区の学士会館で開かれる。【岸桂子】

 ◆絹谷幸二賞

 ◇秘められた強さ--神奈川県相模原市、画家・大谷有花さん

 昨年秋、東京・有楽町の第一生命ギャラリーで開いた個展「life」。矩形(くけい)のキャンバスに、見開きにした本を描いた同サイズの作品を11点並べた。「四角に四角」の組み合わせ、実は相当難度の高い技。画面が凡庸になる危険性をはらんでいるのだ。

 「確かに、黒い枠を描くと平面的になってしまう。絵を邪魔しない文字の加え方も苦労しました」。「でも、難題はいつもあります。クリアするたびに新しい課題を得て、反映させてきたつもり」と、今回も果敢に攻めた。結果、分厚い本を見開いたしなり感を絶妙に構築。人間賛歌の思いを、透明感あふれる色彩で表現することに成功した。

 作品は、トレードカラーの黄緑色やピンクで彩られる。想像上の動物「ウサギねずみ」も登場して、一見、甘い雰囲気が漂う。しかし、独特の透明感は、絵の具を直接ブラシに絞り出し、キャンバスをしごくように幾重にも塗り込めてできあがる。「個展の前には力こぶが一つ増えるほど」という。

 好きな画家は、戦前・戦中に独自の幻想世界を描いた早世の画家、靉光(あいみつ)。「絵の雰囲気は違うと思いますが、絵に込めた生命力や、表現したいものに対する思いの強さは共通しています」ときっぱり話した。

 ◆奨励賞

 ◇明るさとせつなさ交錯--京都市、画家・小沢さかえさん

 丁寧に油絵の具が塗り重ねられ、モチーフ同士が溶け合うような不思議な画面。「ずっと泣きたかったんだ」など、想像力をかき立てる作品タイトルも魅力的だ。昨年、京都市の「MORI YU GALLERY KYOTO」で開いた個展「珠玉のポエジー」の作品群が評価された。「候補に挙がっただけでうれしかったのに。素直に喜んでいます」

 転機はウィーン留学。「日本は情報が多すぎる。違う世界に身を置いてみたい」と海を渡った。しかし、思うように意思疎通をはかれない。「いい絵を描くことだけが、早く認めてもらえる道」と覚悟を決めた。

 一番影響を受けたのは「暗くて寒い、救いようのない冬」という。

 「嫌でも自分に向き合い、深い所に下りていく感じ。でも、それがあったから描けたのかも」

 心の奥深くで醸成された物語や欧州の自然、不安な感情がない交ぜになり、明るさと切なさを感じさせる絵画が誕生した。

 個展の作品群は、帰国後に京都で描いた。「ストレスがなさ過ぎて困りましたが(笑い)、視覚的な快感を追求できた」と振り返る。

 「肩の力がいい具合に抜けてきた」ころの受賞。5月に東京のギャラリーで個展を控える。新たな展開が期待できそうだ。

 ■選考過程

 ◇対象は26人に

 43人に推薦依頼を発送。27人から回答を得て、選考の条件を満たした22~35歳の26人を選考の対象にした。

 候補者にポートフォリオ(経歴や作品写真をまとめたファイル)を送ってもらい、事務局が選考委員3氏に郵送。選考委員はあらかじめ全冊を精査し、選考日までに鑑賞可能な作品は、個展などに足を運んでもらった。

 1次選考は、1人10票で候補者を絞り込んだ後、各候補者の構成力や表現力などについて議論。再度の投票で、大谷、小沢、樫木、小西、篠原、傍島、千葉、原の8氏が2次選考に進んだ。8氏の作品を未見の選考委員は、出展作の一部を見るために各候補者の自宅やギャラリーなどを訪問。全候補者の作品を確認したうえで2次選考に臨んだ。

 2次選考は、最初の投票で大谷、小沢、篠原、傍島の4氏に絞り込んだ。篠原作品は強度を感じる、傍島作品は描くモチーフに説得力があるなどの評価があった。一方、ポジティブなメッセージ性や将来性を高く評価されたのが大谷と小沢の両氏。2回目の投票で両氏の受賞が決まった。

 ■推薦された人たち

 青木豊、浅井裕介、荒川由貴、石井礼子、岩坪賢、大小島真木、大谷有花、小沢さかえ、樫木知子、衣川泰典、小西紀行、コバヤシ麻衣子、設楽陸、篠原愛、傍島義雄、田中千智、千葉正也、南条嘉毅、野瀬早苗、野田竜太郎、原游、藤原由葵、宮城翔子、向山裕、山本太郎、吉井宏平

 ■回答を寄せた推薦者

 石川健次、岡村多佳夫、尾崎信一郎、翁長直樹、加藤義夫、川浪千鶴、岸桂子、沢木政輝、三田晴夫、杉田敦、高階秀爾、鷹見明彦、野地耕一郎、拝戸雅彦、原久子、土方明司、藤田一人、降旗千賀子、本田代志子、松井みどり、松本透、村田真、森本悟郎、山口裕美、山下裕二、和田浩一、渡辺亮一

 (いずれも敬称略、50音順)

 ■絹谷幸二賞

 日本を代表する画家の一人で日本芸術院会員の絹谷幸二さんが08年、「若さゆえの冒険ができる世代の後進を応援したい」と、賞創設を毎日新聞社に呼びかけ、実現した。絹谷さんは1974年、具象絵画の登竜門だった安井賞(96年度の第40回で終了)を、史上最年少(当時)の31歳で受賞。大いに励まされたという体験がある。

 賞の対象は35歳以下の画家。国内で開催の展覧会に出品された、具象的傾向の絵画を選考する。基本的には筆またはそれに準じる画材・身体を用い、紙やキャンバスなどに描いている絵画。毎日新聞社が全国の美術館学芸員や美術評論家、ジャーナリストらに推薦を依頼。回答をもとに、3人の選考委員が2度の審査を経て決定する。賞金は本賞100万円、奨励賞50万円。

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 ■人物略歴

 ◇おおたに・ゆうか

 1977年、相模原市生まれ。多摩美術大大学院修了。2003年VOCA賞奨励賞。個展、グループ展多数=三浦博之撮影

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 ■人物略歴

 ◇おざわ・さかえ

 1980年大津市生まれ。京都造形芸術大、ウィーン造形美術アカデミー卒業。大阪・国立国際美術館で4月4日まで開催中の「絵画の庭」展で近作を発表=津村豊和撮影

毎日新聞 2010年3月7日 東京朝刊

 

【アートな匙加減】素直な笑顔が「時代の薬」(2010年2月21日 産経新聞掲載)

 バンクーバー五輪たけなわの昨今、日本のアスリートたちは世界に伍(ご)して雪上や氷上で大活躍をし、素晴らしい雄姿でわれわれを日々楽しませてくれている。

 男女フィギュアスケートはもとより、スピードスケート男子500メートルでは、長島圭一郎選手が大逆転で銀メダルを獲得し、同僚の加藤条治選手も3位に入り、今大会の日本勢初メダルをダブル受賞することになった。また、フリースタイルスキー女子モーグルの上村愛子選手は惜しくも4位となり、メダルを逃したとはいえ、金メダルにも勝る白雪にキラリと輝くすがすがしいプラチナのような涙の「愛子スマイル」を見せてくれた。

 そもそもわれわれ日本人は、ことさら笑ったり、喜んだりすることを何かしら自粛している様子で、喜怒哀楽というものを他人には見せないシラーッとした控えめな空気がもともと美しいと思われたりする。ことに近年、不気味なほどの無表情が良いとされているのか、押し殺したような、揚げ足をとられぬような知性的にも見える表情が一般に大手を振って歩いている。そのせいか、「愛子スマイル」が際だって美しく見える。

 この国は、万歳をしてすべてを忘れ、深い思慮のもと計画し着実に実行するというより、まずは「動き出す」という情緒型で付和雷同型であったような気がする。

 この衝動的な性格を隠すためか、やたら知恵があるやにポーカーフェースを装っているのか、動き出すには半歩遅れ、笑いも皆の反応を見てから笑い出すといった気風。サッカーのパス回しこそが上手の手本とばかり、ゴールを忘れて仲間意識の謙譲の美徳とやらにうつつを抜かし、ここ一番の何が大切かということはどうやら後回しになるというチームワークのはき違い。

 それに引き換え、唯我独尊が許される個人単体の競技は、かなり良い動きとなる。組織的な動きが本来、わが国の特徴であるはずだったが、いつの間にか筋子状態となってお互い手足を縛って動きづらい状態に今やなっているのではあるまいか。ことに団体となった場合、個性を殺しすぎるあまり高どまりしたスモッグのような塊となる。天井を突き抜ける者が出ず、危機に際して次なる異次元の発想ができなくなるという点が目立ってきているようだ。

 「みんなで渡れば怖くない」のは過去の時代の発想であり、時代は急に転回し、今は昔だともいえる。つまり異端をも組織の中で大切にし、むしろ毛色の変わった半端者を養っておく必要に迫られているのが今日このごろではなかろうか。世間様をいささか遠目で見ている異質な画家には、そう見えてくる。

 われわれの世界にも同様なことが起こっているが、少し違うのは「正解」という答えが100万通り存在し、どれ一つとっても「間違っている」という答えはない。

 その時代で不正解であっても、次の時代に正解ともなりうるし、その逆もまた存在する。それゆえに、この仕事に定年というものもなければ、年齢や地位といった定めもなく、一生涯が現役であり、素浪人であるという厄介な職業でもある。やはりこの時代は「愛子スマイル」のようなほほえみが一番のお薬だともいえる。(きぬたに こうじ)

 

【アートな匙加減】「ちりもみじ」とならぬよう(2010年1月15日 産経新聞掲載)

たえかねて 小枝はなせる

 ちりもみじ(幸二)

 近ごろわが頭髪もちりぢりに冬の寒さが身に染みる昨今。暮れから正月にかけて早くも時は急激に流れ行き、世の無常の瀬音は尽きない。本年こそ時代は反転して良い方向に向かえると祈るばかりだ。

 ところで、わが家の正月はといえば、例年、箱根神社で「今年こそ良い絵が描けますように」とお参りし、駅伝を宮ノ下あたりで応援。その後、一家でお雑煮を祝うというのが定番となっている。

 若さとはいかに素晴らしいことかということを、本年も箱根駅伝の第5区を走る東洋大学・柏原竜二君が眼前で見せてくれ、昨年同様、勇気をいただいた。汗一つかかず軽々と飛ぶように駆け抜けるその姿は、もし箱根に天狗(てんぐ)が住んでいればかくのごときかと見まごうばかりだ。

 ここで少し話は変わるが、若さと運命について「君主論」でマキャベリは次のように言っている。

 運命は時代を変転させるのに、人間たちは自分の態度にこだわり続けるから、双方が合致している間は幸運に恵まれるが、合致しなくなるや不運になってしまう。私としてはけれどもこう判断しておく。すなわち慎重であるよりは果敢である方がまだよい。

 なぜならば、運命は女だから、彼女を組み伏せようとするならば彼女を叩(たた)いてでも自分のものにする必要があるから。そして周知のごとく、冷静に行動する者たちよりも、むしろこういう者たちの方に彼女は身を任せるから。それゆえに運命は常に、女に似て、若者たちの友である。

 なぜならば、彼らに慎重さは欠けるが、それだけ乱暴であるから。そして大胆であればあるほど、彼女を支配できるから。(島田雅彦著「美しい魂」から引用)

 女性を叩いてでも…はマキャベリに代わっておわびしなければならないのだが、定年を目前に「ちりもみじ」とならないためにも、このような刺激的な言葉をも胸に秘め、私をはじめわが国も人々も、さらなる若々しい変革を遂げなければならないだろう。

 思い起こせば私の画中にあっても少しはこれに似た変革は常に心掛けてはきたつもりだが、反転するにはまだまだエネルギーが不足であるような気がする。わが国では「老いては子に従い」とか「六十にして迷わず」など、大人としての振る舞いを誘導されているような節が見受けられる。人との調和や奥ゆかしさが先行するためか、運命を自ら切り開くという強靱(きょうじん)な熱意は影を潜め、皆と一緒に埋没する安心感がそこはかとなく漂っている。今年こそ、孤独を恐れず、群れず、頭髪の陰りもシワも気に留めず、冬の寒さもイーハトーブの主のごとく耐えて、独自の創造的な道を再びさぐらなければならないのだろう。

 老若男女とも生きている限り、この地球は天空に浮かぶ唯一の浄土や天国といっても不思議ではない。夢のような飛行体でもある。ここに生まれて喜びを歌い、描き、愛せずしてどこが天国といえようか。おのおのの分野で今以上の誰もが想像し得なかった大胆で乱暴にもみえる闊達(かったつ)な希望という創造力の翼を大きく広げなければならない時期に、わが国は来ているのだと思う。(きぬたに こうじ)

 

【アートな匙加減】「地」のリスクマネジメント(2009年11月6日 産経新聞掲載)

コロンビアの首都、ボゴタの飛行場の滑走路はいかにも長い。満員の飛行機を高度2800メートルの高地から空へ持ち上げるのは至難の業だ。私の乗った飛行機は滑走路を気が遠くなるほど(ものの数分だが)疾走し続ける。やっと持ち上がったといっても、ほとんどそのままの緩やかな助走曲線をとり、もう一度地上に引き戻されるのではないかと気が気ではない。やっと亀の首のように機首を上げ、一息も二息もついて空の人になる。

 先年、コロンビアを代表する画家で彫刻家フェルナンド・ボテロさんの名を冠した美術コンクール「ボテロ賞」の選考委員として審査のため訪れたボゴタは、赤道近くの地で、一年中バラの花が咲き、6月の気候であることなど知るよしもなかった。四季というものは、時間軸で変わっていくものとばかり思っていたが、高度差でいとも簡単に変えられるものだと気づかされた。

 わずか500メートル上がれば菜の花が咲く春先となり、山を下ればバナナもブーゲンビリアも咲き誇る盛夏、熱帯となる。病原菌を仲介するハエやゴキブリ、ノミたちは、気圧か乾燥した空気か温度のせいで住みにくく、しかも美しい山の水が手近にある所だった。チリやメキシコシティーが、なぜかくも天空に近い地にその文化が栄えたのか。医療の行き渡らない時代のリスクマネジメントとして、先人はこのことを知り尽くしていたのだろう。旅はしてみるもの。本に書かれていない疑問が解ける。

 わが国の飛鳥、藤原、奈良、京都と移り変わる遷都も、実は人口増加に伴う糞尿(ふんにょう)の処理と疫病の関係に由来するところが大きかった、と思う。藤原京が、なぜかくも短命な都だったかは、その地が平坦(へいたん)に過ぎたのではないかとも思える。排水が思うに任せず、糞尿処理ができなかったのではないだろうか。平城の内裏から南大門にかけても、わずかに斜面が南に駆け下り、平安京でも洛北から南に向かって傾斜があり、十分な水とそれを流す下り坂が鎮座する。このことが都を1000年続けさせたのではないだろうか。

 当然、強大な大陸との地政学上の要害の地が奈良・京都であったことも否めないが、両者はやはり先人の深慮の結果であり、当時日本に航空写真があったのではないかと思えるほど狭い日本の中でも的を射た地勢である。鳥取の大山の麓(ふもと)には、妻木晩田(むきばんだ)遺跡が西の海岸線を見張っていたが、神話の出雲や博多のパワースポットは、以後の元寇などにみられるように、防衛の点では大陸からの危険に対峙(たいじ)していた。それゆえ、道元禅師永平寺弘法大師高野山は、若狭や堺の港に近く、大陸からの情報をいち早く求められる所でありながら、少し退いた要害、修行のできる山上で危険をかわしている。

 伊勢には「心の宮」を置いて、大和からこれも未開の地への出口として、東方日のいずる富士に向かって、先取の布陣としたか。

 日本人の美を愛(め)でる心は、単にリスクマネジメントなしに守られてきたのではなく、時代や空間、心情変化を機敏にとらえ、平和な時代をむさぼらず、変化する海外事情と文化芸術、技術を必死でとらえ続けてきた賜(たまもの)だといえよう。(きぬたに こうじ)