『二代目聞き書き中村吉右衛門』発刊記念
師弟対談 中村吉右衛門(歌舞伎俳優)絹谷幸二(洋画家)
生き物が楽しく過ごせる場所には色彩があふれている。奈良もイタリアも…。
歌舞伎も、人々が能狂言より強さを求めた結果、生まれたのでしょう。
歌舞伎俳優として充実した演技を見せる中村吉衛門氏(65)は、油絵の筆も執る美術通。『二代目聞き書き中村吉右衛門』(毎日新聞社)発刊を機に、現代絵画の旗手、絹谷幸二氏(66)と語り合った。頂点を極めた同士、通じることは多いよう―。
吉右衛門 絹谷先生に初めてお目にかかったのは20年以上前でしょうか。家内の知り合いの紹介で展覧会にうかがったのがきっかけで、作品の強烈さにすっかり魅了されました。先生は全然お変わりになりませんね。
絹谷 吉衛門さんこそ、お変わりにならない。
吉右衛門 いや、僕はこれですから(と頭を指さす)。
絹谷 吉衛門さんは初めてお会いしたころから憧れの的でございましてね。舞台はもちろん、普段のお姿もスラッとされていて、もう最高です。芝居で特に好きなのが、あの、島に流されてしまう…。
吉右衛門 ああ「俊寛」ですね。
絹谷 新作も好きです。もちろん「鬼平(犯科帳)」も。なんといっても吉衛門さんは絵を描かれますから。
吉右衛門 不肖の弟子でございます(笑)。先生の芸大の研究室へ自作を持っていったところ、「こうした方が」などと教えをいただきました。お宅でモデルを使ったデッサンの教室を開いていらしたので、うかがいたかったのですが時間がなくて残念です。
絹谷 私は歌舞伎座に絵を見るためうかがいました。楽屋ですでに衣装をつけておられるのに、絵を並べて下さいました。拝見しましたが、舞台がもう始まっている。大丈夫かなと心配しました。
吉右衛門 絵のほうに夢中になっちゃって(笑)。
絹谷 絵もお上手です。私は随筆で「吉右衛門さんがもうちょっとうまかったら、写楽は歌舞伎役者だったというのが証明されるのではないか」と書いたことがあります。非常に写実的な目を持っておられますね。吉右衛門さんはバランスのとれた方ですが、絵も動きとか光の調子のバランスが良くて素晴らしい。
吉右衛門氏が初めて歌舞伎座の舞台に立ったのは51年。その歌舞伎座は来年4月公演を最後に、建て替えに入る。「さよなら公演」の最中で、9月には「時今也桔梗旗揚」の武智光秀、「鈴ヶ森」の長兵衛、「勧進帳」富樫、「松竹梅湯島掛額」の長兵衛の四役を務める。
吉右衛門 「さよなら公演」が始まりましたら、「特別な公演だから、この役を」と言われます。気が弱いものですから断れない。長い間役者をやってまいりましたけれども今年は、相当こたえております。7月末は各地で巡業公演をしてました。以前でしたら空き時間に景色をスケッチしたりしてたのに、今年は楽屋で休んでいました。
絹谷先生はお年を感じさせないほど、意欲的にいろいろなことをやっていらっしゃる。エネルギー、若さの秘訣をお聞きしたい。
絹谷 僕は昭和18年、吉右衛門さんは19年生まれ。その世代は、働き続ける運命に置かれているんじゃないかと思います。戦争が終わり、日本の心を伝えていかなきゃいけないという思いが形になり、忙しさに駆り立てられている。
でも今は、うちにいるラブラドルレトリバー3匹に学んでいます。犬はちょっと時間があるとライオンのようにゴロンと寝る。老いては犬に従えです。僕も、絵を描く合間に10分でも20分でも横になるようにしています。吉右衛門さんも立って仕事をされていますから、時々ワインボトルみたいに横になっていると血液のめぐりがよくなるのではないかと思うのですが。
吉右衛門 そうですか。いや、私の養父の初代吉右衛門は晩年、といっても今の僕の年なんだけど、そのころから体が弱って、楽屋では横になっていました。それでも舞台でお客さんの前に出ると、病気なんて吹っ飛ばして芝居をしてしまう。口さがない楽屋雀が多いから、私の実父・幸四郎(白鸚)に代役をさせるために病気のふりをしているんじゃないかという噂が立ったほどです。それがあったので、僕は楽屋では絶対寝るまいと心に誓っていた。ついこのあいだまで寝たことはありません。ですけど、今年に入ったらやっぱり、しんどくなった。少しでも横になるとずいぶん違います。これからは、「絹谷先生もすすめておられる」と、それを理由に横にならせてもらいます(笑)。
見えないところに心を配る精神
絹谷 楽屋でも皆さんが見ておられますから大変だと思います。
吉右衛門 うるさいものです、楽屋雀は。もう何かあるとワーッと広まる。京都で事件が起きて東京へ電話したら、もう知っていたという笑い話もあるほどです。
絹谷 京都は特に早うございます(笑)。私は来年芸大を定年退官になります。そうしましたら吉右衛門さんのおっかけをやりまして、絵を描きたい。亡くなられた片岡球子先生の「面構」シリーズのようなものを。
吉右衛門 うわあ!元気になった。頑張んなくちゃ。先生に描いていただけるだけの芝居をしなくてはいけませんね。
絹谷 私は普段の吉右衛門さんはどのような格好をしておられるのかなと想像してます。もう題名ができちゃった。「普段の吉右衛門」とか、「楽屋の吉右衛門」とか。少しでも片岡球子先生に近づくためには、筆を磨かなきゃいけませんね。
絹谷氏は奈良の老舗料理旅館に生まれる。東京芸大大学院を修了後、留学先のイタリアで古典壁画技法のアフレスコ画を研究。同技法による独自の絵画表現を築き、74年に当時最年少の31歳で安井賞を受賞した。
吉右衛門 奈良の古いものに触れて育たれた先生が、なぜイタリアでフレスコに興味をお持ちになったんですか。
絹谷 イタリアは、意外と奈良や京都と似てるんです。
吉右衛門 ほうほう。
絹谷 まず、宗教がしっかりと生活に根付き、信じられているという世界がある。色彩も色彩です。色彩があるところは喜びの場所です。歌舞伎もそうでしょう。色彩が奪われてくると不況になったり、軍隊の国防色が濃くなったりする。砂漠で色彩は空の色しかないでしょう。生物が楽しく過ごせるところには、色彩が溢れているのです。
奈良も今は古色蒼然としていますが、本来は非常に華やかだった。お寺の柱の赤、連子格子のエメラルドグリーン、仏様の金色。楽園といいますか浄土といいますか……そういう世界を、僕は歌舞伎にもイタリアにも見ます。
吉右衛門 歌舞伎も同じだったと思いますね。色彩の力強さ、エネルギッシュさは歌舞伎の特徴です。それ以前にも能や狂言という芸術がありましたけれども、人々がもっと動きが激しいものを求めた結果、歌舞伎が生まれたのではないでしょうか。
彫刻では、見えない衣の下にある足の指までちゃんと削られていたというのがございますね。見えないからいいというのではなく、指や足まで彫るという精神は芝居でも失ってはいけない。さもないと空虚なもの、ただにぎやかなものになってしまうような気がします。そこをどうつかむかというのがいまだに難しいのですが…。
絹谷 そういうふうに美術的な目を持っておられるのは素晴らしいと思いますね。だから吉右衛門さんの舞台からは、本当に風が吹いてきて、心が交感するような気がするのですね。
「親方・弟子」だから学べること
吉右衛門氏は84年、絹谷氏は01年に日本芸術院賞を受賞。ともに芸術院会員で、最高峰に達しつつある二人にとって、芸の伝承や後継者の育成は大きな課題である。
吉右衛門 私は幸か不幸か、まだ自分のやり方を伝えるものがいないんです。先生のご子息(彫刻家の幸太さん)は大変なご活躍ですね。
絹谷 とんでもございません。吉右衛門さんの半生記『二代目』を読ませもうらうと、歌舞伎界はなかなか厳しいですね。お母様の正子さんは父親の初代(吉右衛門)に「坊や」と呼ばれていたとか。
吉右衛門 そうなんです。父親である初代は、一人娘を女の子だと信じたくない。舞台にも出したりなんかしておりましたんでね。それが、私の実父の八代目幸四郎のところへ嫁に行きたいと言い出したものだから驚いた。「ダメだ」と言われたのを、母は「男の子を2人産んで、1人には幸四郎家をを継がせ、1人を実家に養子に出すから行かせてくれ」と説得したという話がございます(笑)。
絹谷 すごい決意ですね。
吉右衛門 やり遂げましたから尊敬します。先生の場合、息子さんは小さい頃からそばにいらしたから、絵画に興味を持たれたのでしょう?
絹谷 最初、長男の幸太はプロゴルファーになりたいと言っていたんです。
吉右衛門 そうなんですか。
絹谷 それで日大の絵か彫刻なら時間に余裕があるから、ゴルフもできると言い聞かせて特訓した。意外とそれで面白くなったようです。先生もよかった。柳原義達(彫刻家、文化功労者)先生ですから。ゴルフはすぱっとやめました。それが4人兄弟の一番上。一番下に香菜子という女の子がいます。名付ける時から日本画でサインしたらいい名だなというイメージがあったのですが、今、日本画をやっています。
吉右衛門 無言のうちに伝わるものがあったのかな。
絹谷 あまり教えなかったのがよかったようです。彼女は意外と親の言うことを聞かない。アドバイスはできるだけ“チャック”しまして、ほかの人に言ってもらう(笑)。
吉右衛門 僕らは役を教える時は一対一ですが、先生方の場合は何十人という学生を教える。授業だったらもっと多いから、大変でしょうね。
絹谷 昔の画家は塾のようなところで、吉右衛門さんのような教え方をしていたのですが、そのほうが、一人一人に目的を持って教えられる。私もイタリアでサエッティ先生の個人的な弟子をしていました。そこで経験する一つ一つが勉強になりました。今は塾が学校みたいになって、顔を付き合わせて教え、学ぶということがなくなってしまった。学校教育が空洞化している理由はそれでしょうね。
吉右衛門 カバン持ちみたいなところからやられたんですか。
絹谷 そうです。先生をプロフェッサーでなくマエストロと言う。「親方」です。
「これぞ」の才能に門戸を開いたら
歌舞伎の世界では、「世襲」が当たり前と見られている。当世、何かと風当たりの強い「世襲」。吉右衛門氏からは心強い言葉が飛び出した。
吉右衛門 歌舞伎もついこのあいだまで親方だったのに、今は先生とか言っちゃって(笑)。昔は種が絶えたらその家は養子をとるのが当たり前でした。三代目、四代目と続く家系の方が珍しかった。それがだんだん保守的になり、血のつながりが重んじられるようになってきた。御曹司でないと、いろいろ役がつかないみたいなことはあるんですが、これぞという才能にはもっと門戸を開いてもいいかと思います。一朝一夕には難しいかもしれませんが、そうしないと、どんどん門が狭まってしまうんじゃないかと思います。
絵画の世界は、ほとんどの方が個性を出してやられています。歌舞伎は、「親に似てきた」「おじいちゃんにそっくり」ということを喜んでいただける。そこが独特だなあと思いますけども。
絹谷 それはそれでいいですね。
吉右衛門 いい面、悪い面両方ですね。政界では世襲というものが問題になっていますね。いい面がどんどん出てくれば素晴らしいことだと思いますが、一方で、一代で名優になる方ももっといらしてもいいかなとは思いますけどね。
絹谷 『二代目』で指摘しておられるように、脇役さんも大切ですね。
吉右衛門 総合芸術でございますので、通行するだけの役でもダメだったら音符が一つ欠けるようなものです。お客様に感動を与えられるような音をみんなで出さなければならないと思います。
絹谷 今日は別の命題ができました。吉右衛門さんの役者絵です。
吉右衛門 私はいつか絹谷幸二賞を目指そうかと。えっ、年齢制限が35歳までなんですか、ああ……。
絹谷 遅かりしー!
きぬたに・こうじ
1943年、奈良県生まれ。東京芸大大学院を修了後、イタリアに留学。74年に当時最年少の31歳で受賞した安井賞がはげみになったことから、08年35歳以下の優れた若手画家を顕彰する「絹谷幸二賞」を創設する。日本芸術院会員で東京芸大教授。
なかむら・きちえもん
1944年、初代松本白鸚(八代目松本幸四郎)の次男として生まれ、祖父である初代吉右衛門の養子となる。66年二代目吉右衛門を襲名。06年に毎日芸術賞を受賞。日本芸術院会員。『二代目』発売は9月10日。
司会・構成/毎日新聞編集委員 小玉祥子