雑誌

■『駱駝』(2006年2-3月号/小学館)

「モン・サンミッシェル 心の巡礼紀行」

 <探求>ロマネスク、ゴシック~教会建築が積み重なった“西欧の驚異”~

 <滞在>島内の老舗ホテル『ラ・メール・プーラール』

 <聖地>クールベ、モネ、ブータン-数多くの画家が描いた絶景

 <発見>ノルマンディーは海外文化の入り口

 

■『サンデー毎日』(2009年9月6日増大号)

 「二代目聞き書き中村吉右衛門」発刊記念

 師弟対談 中村吉右衛門(歌舞伎俳優)絹谷幸二(洋画家)

 

■『週刊新潮』(2010年6月10日号~7月1日号連載)

 ①とっておき私の奈良 【飛火野】 (2010年6月10日号)

 ②とっておき私の奈良 【平城宮跡 第一次大極殿】 (2010年6月17日号)

 ③とっておき私の奈良 【橿原神宮】 (2010年6月24日号)

 ④とっておき私の奈良 【阿倍文殊院】 (2010年7月1日号)

 

 

 

【とってき私の奈良】①飛火野(週刊新潮 2010年6月10日号掲載)

「ここは、ぼくら、悪童の遊び場。映画の撮影隊に遭遇したこともありましたねぇ」

そう回想するのは、猿沢池のほとりで育った洋画家の絹谷幸二さん。奈良市東部、春日山・御蓋山・若草山などの西麓の山野を総称して春日野と呼ぶ。そのうち、絹谷さんがスケッチ帖に鉛筆を走らせている、ここ春日大社参道の南側を特に飛火野という。飛火とは烽の意。古くは狼煙を上げていた場所ともされる。

「世阿弥が書いた名作『野守』の舞台でもあります」

いつのまにか傍に寄ってきた鹿を横目に絹谷さんがいう。

「昔は、家の中にまで平気で入って来た。野生動物とこんなに身近に接することのできる都市はほかにない。自然と人間が共生してきたことを、もっと誇っていいのでは」

絹谷さんの生まれた元林院町は、かつて興福寺ゆかりの絵師たちが住み、絵屋町と称した。実家は江戸時代から続く由緒ある料亭だった。出入りする高畑サロンの文人墨客などの影響で、自然と、芸術や文学に親しむようになった。

学院では壁画科に進む。専ら、漆喰に水で溶いた顔料で描くアフレスコ古典画を学んだ絹谷さんは、現在、その壁画技法の国内第一人者だ。

「奈良の古さに対峙するには、フランスに代表される近代絵画ではなく、イタリアの古典を学ぶ必要があると思った」

1972年、高松塚古墳の石室内で極彩色の壁画が発見されると、絹谷さんはそれまで習得した技法を活かし、保存対策の一役を担った。

「人物群像の女性の顔を見ると、睫毛まではっきりと描かれている。これほど精緻な壁画は世界に類がない。古代人の絵画技術の奥深さに驚かされました」(撮影・田村邦男)

 

<飛火野へのアクセス>

飛火野/奈良市春日野町/東海道新幹線・京都駅下車~近鉄奈良線・近鉄奈良駅~「大仏殿春日大社前」バス停から徒歩で5分。

 

<プラス1>

奈良ホテル/1909(明治42)年に創業した奈良公園内の老舗。瓦屋根の本館は桃山御殿風檜造り。「高い天井にやすらぎを覚えます」と絹谷さん/0742263300/奈良市高畑町1096/東海道新幹線・京都駅下車~近鉄奈良線・近鉄奈良駅~「奈良ホテル」バス停からすぐ。

 

 

【とってき私の奈良】②平城宮跡 第一次大極殿(週刊新潮 2010年6月17日号掲載)

近鉄奈良線の電車に乗って大和西大寺駅を過ぎるとまもなく、線路の両側に広大な野原が目に飛び込んでくる。今から1300年前にわが国の都城に定められた平城京。その北辺中央部に世界文化遺産に登録された平城宮跡がある。

「線路の南に朱雀門が見えると奈良に帰ってきたのを実感したもの。でも、今春からは、北にさらにスケールの大きな大極殿が姿を現したことで、宮殿をより立体的に体感できるようになりましたね」

そう話すのは、奈良市出身の洋画家・絹谷幸二さん。

「文化財は、むろん保護し、後世に伝えていかなければならない。その一方で、平城京の建物の復原工事のように、これからの文化財を創出する作業も重要だと思います」

大極殿は、政治や行政の最も中心となる建物。天皇の即位式や元日の朝賀などの国家的儀式はここで行われた。

平城京に都があった710年~784年の間に2度造られており、復原されたのは第一次大極殿。正面約44メートル、側面約27メートル。朱雀門の約5倍のボリュームがあり、朱色の柱44本、約10万枚の屋根瓦を持つ建物の傍に立つと大寺院の本堂のような迫力を感じさせる。内部には天皇が着座する高御座の実物大模型も展示されており、見物者の興味を集めていた。

「国家を人体にたとえるなら、奈良の地は子宮にあたる」

と喝破する世界的な洋画家。

「緊張した東アジアの政治状況の下、われわれの祖先は、九州から瀬戸内をめぐり、難波から大和盆地に到って、やっと一息ついたのではないか。『古事記』で“倭は国のまほろば”と詠われているのは、彼らの偽らざる本音だったのでしょう」(撮影・田村邦男)

 

<第一次大極殿へのアクセス>

平城宮跡/奈良市佐紀町/東海道新幹線・京都駅下車~近鉄京都線・大和西大寺駅から徒歩10分(117までシャトルバスを運行)。

 

<プラス1>

平城京なりきり体験感/平城遷都1300年祭にちなみ、平城宮跡会場に設けられた施設のひとつ。木簡作成などの仕事体験、疑似発掘体験、平城衣装体験などが楽しめる(117まで)。

 

 

 

 

【とってき私の奈良】③橿原神宮(週刊新潮 2010年6月24日号掲載)

奈良盆地の南部に鼎立して並ぶ大和三山。西に位置する畝傍山の南東麓にあり、約ツに16万坪に及ぶ神域を占めるのが、橿原神宮である。1890(明治23)年、『記・紀』の建国神話の中で初代の神武天皇の宮があったとされる地に、官幣大社として創建された。

「畝傍山のシルエットが実に美しい。心が洗われます」

周囲をぐるりと廻廊に囲まれた内拝殿を前に、そう話すのは洋画家絹谷幸二さん。

「雄大で簡素な造りの社殿が目線に映え、厳粛な気配が漂ってきます。神々しいね」

創建当初は京都御所より移築された本殿と拝殿があったのみだが、その後、神域はたゆまず拡張されてゆく。1940年、紀元2600年奉祝式典の再には、約1000万人の参拝者が訪れたという。

その折、全国各地から寄進された樹林は、表参道北側に拡がる森林遊苑となって今の健在。神殿前広場の南神門の外側にある深田ともども、市民の格好の憩いの地となっている。橿原神宮を含む一帯は、橿原公苑として整備されており、その中には陸上競技場や野球場も設置されている。

「橿原の野球場は、高校野球の県予選大会のメイン会場。このグラウンドで白球を追った日々が思い出されます」

とは、かつて県立奈良高校野球部の一員として甲子園を目指した絹谷さんの弁。

1回戦で優勝候補の御所工高とあたり、引き分けましてね。試合後、御所工の選手は、監督やOBに正座させられ、こっぴごくっ叱られていた。もっとも、翌日の再試合では、実力どおり、大敗しました」

人々に“神武さん”と敬慕される橿原神宮。世界的な洋画家にとってもここは永遠の聖地らしい。(撮影・田村邦男)

 

<橿原神宮へのアクセス>

橿原神宮/0744224960/奈良県橿原市大谷町2485/東海道新幹線・京都駅下車~近鉄橿原線・橿原神宮前駅から徒歩で10分。

 

<プラス1>

畝火山口神社/畝傍山西麓に鎮座する式内社。神功皇后らを祀る。安産の神。/0744 22 4960/奈良県橿原市大谷町2485/東海道新幹線・京都駅下車~近鉄橿原線・橿原神宮前駅から徒歩で15分。

 

【とっておき私の奈良】④安倍文殊院(週刊新潮 2010年7月1日号掲載)

平城遷都1300年祭に沸く奈良大和路。それを記念し、県内各地の社寺では、さまざまな文化遺産を特別開帳中だ。洋画家の絹谷幸二さんが訪れたのは、南大和の安倍文殊院。ここに日本三文殊の一つに数えられる高さ約7メートルの文殊菩薩像がある。ただ今は、鎌倉時代、仏師快慶により造立されて以来800余年にして初めて巨大な獅子から降りられた文殊菩薩が、眼前に拝観できる。

「間近で見ると、ぞくぞくするようなオーラを感じます」

そう唸った世界的な洋画家は、スケッチ帖を取り出し、画用紙に鉛筆を走らせる。執事長の東應さんによれば、

「昨秋、文化庁の技官によって文殊菩薩とその脇侍の表面の塗料が剥落するのを防ぐ修理が行われることになった」

そのためには、当然文殊菩薩に降りていただかねばならない。修理自体は、昨年度中に終了したが、せっかくの機会でもあり、“お参りにこられた皆様にも眼前で拝んでいただこう”という配慮から、そのまま公開することとなった次第(1130日まで)。

創建は7世紀。孝徳天皇の時代に安倍倉梯麻呂が建立したのが始まり。本堂の右手に佇む古墳の石室は、一説にその倉梯麻呂の墓といわれる。唐の玄宗皇帝に重用された阿倍仲麻呂や陰陽師で有名な安倍晴明も、この地の出身。安倍晴明が文殊菩薩の化身とされたことから、鎌倉時代、この文殊菩薩像が造られ、本尊として全国的信仰を得てゆく。

「文殊菩薩の佇まいが大陸風で、さすが仲麻呂ゆかりの寺」と絹谷さん。

「有名な善財童子は躍動感に溢れていて、ほかの脇侍がまた素晴らしい。この空間にはアジアに連なる大きな構えを感じます」(撮影・田村邦男)

 

<安倍文殊院へのアクセス>

安倍文殊院/0744430002/奈良県桜井市安倍山/東海道新幹線・京都駅下車~近鉄大阪線・桜井駅~「安倍文殊院前」バス停からずぐ。

 

<プラス1>

文殊院西古墳/文中で触れた文殊院境内の古墳。横穴式石室を持ち、玄室は表面を磨いた切石を整然と5段に組み上げ、天井石にアーチ状にした大きな一枚石を使用。7世紀の安倍氏の権勢が窺える。

 

『サンデー毎日』(2009年9月6日増大号)

『二代目聞き書き中村吉右衛門』発刊記念

師弟対談 中村吉右衛門(歌舞伎俳優)絹谷幸二(洋画家)

 

生き物が楽しく過ごせる場所には色彩があふれている。奈良もイタリアも…。

 

歌舞伎も、人々が能狂言より強さを求めた結果、生まれたのでしょう。

 

歌舞伎俳優として充実した演技を見せる中村吉衛門氏(65)は、油絵の筆も執る美術通。『二代目聞き書き中村吉右衛門』(毎日新聞社)発刊を機に、現代絵画の旗手、絹谷幸二氏(66)と語り合った。頂点を極めた同士、通じることは多いよう―。

 

吉右衛門 絹谷先生に初めてお目にかかったのは20年以上前でしょうか。家内の知り合いの紹介で展覧会にうかがったのがきっかけで、作品の強烈さにすっかり魅了されました。先生は全然お変わりになりませんね。

絹谷 吉衛門さんこそ、お変わりにならない。

吉右衛門 いや、僕はこれですから(と頭を指さす)。

絹谷 吉衛門さんは初めてお会いしたころから憧れの的でございましてね。舞台はもちろん、普段のお姿もスラッとされていて、もう最高です。芝居で特に好きなのが、あの、島に流されてしまう…。

吉右衛門 ああ「俊寛」ですね。

絹谷 新作も好きです。もちろん「鬼平(犯科帳)」も。なんといっても吉衛門さんは絵を描かれますから。

吉右衛門 不肖の弟子でございます(笑)。先生の芸大の研究室へ自作を持っていったところ、「こうした方が」などと教えをいただきました。お宅でモデルを使ったデッサンの教室を開いていらしたので、うかがいたかったのですが時間がなくて残念です。

絹谷 私は歌舞伎座に絵を見るためうかがいました。楽屋ですでに衣装をつけておられるのに、絵を並べて下さいました。拝見しましたが、舞台がもう始まっている。大丈夫かなと心配しました。

吉右衛門 絵のほうに夢中になっちゃって(笑)。

絹谷 絵もお上手です。私は随筆で「吉右衛門さんがもうちょっとうまかったら、写楽は歌舞伎役者だったというのが証明されるのではないか」と書いたことがあります。非常に写実的な目を持っておられますね。吉右衛門さんはバランスのとれた方ですが、絵も動きとか光の調子のバランスが良くて素晴らしい。

 

吉右衛門氏が初めて歌舞伎座の舞台に立ったのは51年。その歌舞伎座は来年4月公演を最後に、建て替えに入る。「さよなら公演」の最中で、9月には「時今也桔梗旗揚」の武智光秀、「鈴ヶ森」の長兵衛、「勧進帳」富樫、「松竹梅湯島掛額」の長兵衛の四役を務める。

 

吉右衛門 「さよなら公演」が始まりましたら、「特別な公演だから、この役を」と言われます。気が弱いものですから断れない。長い間役者をやってまいりましたけれども今年は、相当こたえております。7月末は各地で巡業公演をしてました。以前でしたら空き時間に景色をスケッチしたりしてたのに、今年は楽屋で休んでいました。

絹谷先生はお年を感じさせないほど、意欲的にいろいろなことをやっていらっしゃる。エネルギー、若さの秘訣をお聞きしたい。

絹谷 僕は昭和18年、吉右衛門さんは19年生まれ。その世代は、働き続ける運命に置かれているんじゃないかと思います。戦争が終わり、日本の心を伝えていかなきゃいけないという思いが形になり、忙しさに駆り立てられている。

でも今は、うちにいるラブラドルレトリバー3匹に学んでいます。犬はちょっと時間があるとライオンのようにゴロンと寝る。老いては犬に従えです。僕も、絵を描く合間に10分でも20分でも横になるようにしています。吉右衛門さんも立って仕事をされていますから、時々ワインボトルみたいに横になっていると血液のめぐりがよくなるのではないかと思うのですが。

吉右衛門 そうですか。いや、私の養父の初代吉右衛門は晩年、といっても今の僕の年なんだけど、そのころから体が弱って、楽屋では横になっていました。それでも舞台でお客さんの前に出ると、病気なんて吹っ飛ばして芝居をしてしまう。口さがない楽屋雀が多いから、私の実父・幸四郎(白鸚)に代役をさせるために病気のふりをしているんじゃないかという噂が立ったほどです。それがあったので、僕は楽屋では絶対寝るまいと心に誓っていた。ついこのあいだまで寝たことはありません。ですけど、今年に入ったらやっぱり、しんどくなった。少しでも横になるとずいぶん違います。これからは、「絹谷先生もすすめておられる」と、それを理由に横にならせてもらいます(笑)。

 

見えないところに心を配る精神

 

絹谷 楽屋でも皆さんが見ておられますから大変だと思います。

吉右衛門 うるさいものです、楽屋雀は。もう何かあるとワーッと広まる。京都で事件が起きて東京へ電話したら、もう知っていたという笑い話もあるほどです。

絹谷 京都は特に早うございます(笑)。私は来年芸大を定年退官になります。そうしましたら吉右衛門さんのおっかけをやりまして、絵を描きたい。亡くなられた片岡球子先生の「面構」シリーズのようなものを。

吉右衛門 うわあ!元気になった。頑張んなくちゃ。先生に描いていただけるだけの芝居をしなくてはいけませんね。

絹谷 私は普段の吉右衛門さんはどのような格好をしておられるのかなと想像してます。もう題名ができちゃった。「普段の吉右衛門」とか、「楽屋の吉右衛門」とか。少しでも片岡球子先生に近づくためには、筆を磨かなきゃいけませんね。

 

絹谷氏は奈良の老舗料理旅館に生まれる。東京芸大大学院を修了後、留学先のイタリアで古典壁画技法のアフレスコ画を研究。同技法による独自の絵画表現を築き、74年に当時最年少の31歳で安井賞を受賞した。

 

吉右衛門 奈良の古いものに触れて育たれた先生が、なぜイタリアでフレスコに興味をお持ちになったんですか。

絹谷 イタリアは、意外と奈良や京都と似てるんです。

吉右衛門 ほうほう。

絹谷 まず、宗教がしっかりと生活に根付き、信じられているという世界がある。色彩も色彩です。色彩があるところは喜びの場所です。歌舞伎もそうでしょう。色彩が奪われてくると不況になったり、軍隊の国防色が濃くなったりする。砂漠で色彩は空の色しかないでしょう。生物が楽しく過ごせるところには、色彩が溢れているのです。

奈良も今は古色蒼然としていますが、本来は非常に華やかだった。お寺の柱の赤、連子格子のエメラルドグリーン、仏様の金色。楽園といいますか浄土といいますか……そういう世界を、僕は歌舞伎にもイタリアにも見ます。

吉右衛門 歌舞伎も同じだったと思いますね。色彩の力強さ、エネルギッシュさは歌舞伎の特徴です。それ以前にも能や狂言という芸術がありましたけれども、人々がもっと動きが激しいものを求めた結果、歌舞伎が生まれたのではないでしょうか。

彫刻では、見えない衣の下にある足の指までちゃんと削られていたというのがございますね。見えないからいいというのではなく、指や足まで彫るという精神は芝居でも失ってはいけない。さもないと空虚なもの、ただにぎやかなものになってしまうような気がします。そこをどうつかむかというのがいまだに難しいのですが…。

絹谷 そういうふうに美術的な目を持っておられるのは素晴らしいと思いますね。だから吉右衛門さんの舞台からは、本当に風が吹いてきて、心が交感するような気がするのですね。

 

「親方・弟子」だから学べること

 

吉右衛門氏は84年、絹谷氏は01年に日本芸術院賞を受賞。ともに芸術院会員で、最高峰に達しつつある二人にとって、芸の伝承や後継者の育成は大きな課題である。

 

吉右衛門 私は幸か不幸か、まだ自分のやり方を伝えるものがいないんです。先生のご子息(彫刻家の幸太さん)は大変なご活躍ですね。

絹谷 とんでもございません。吉右衛門さんの半生記『二代目』を読ませもうらうと、歌舞伎界はなかなか厳しいですね。お母様の正子さんは父親の初代(吉右衛門)に「坊や」と呼ばれていたとか。

吉右衛門 そうなんです。父親である初代は、一人娘を女の子だと信じたくない。舞台にも出したりなんかしておりましたんでね。それが、私の実父の八代目幸四郎のところへ嫁に行きたいと言い出したものだから驚いた。「ダメだ」と言われたのを、母は「男の子を2人産んで、1人には幸四郎家をを継がせ、1人を実家に養子に出すから行かせてくれ」と説得したという話がございます(笑)。

絹谷 すごい決意ですね。

吉右衛門 やり遂げましたから尊敬します。先生の場合、息子さんは小さい頃からそばにいらしたから、絵画に興味を持たれたのでしょう?

絹谷 最初、長男の幸太はプロゴルファーになりたいと言っていたんです。

吉右衛門 そうなんですか。

絹谷 それで日大の絵か彫刻なら時間に余裕があるから、ゴルフもできると言い聞かせて特訓した。意外とそれで面白くなったようです。先生もよかった。柳原義達(彫刻家、文化功労者)先生ですから。ゴルフはすぱっとやめました。それが4人兄弟の一番上。一番下に香菜子という女の子がいます。名付ける時から日本画でサインしたらいい名だなというイメージがあったのですが、今、日本画をやっています。

吉右衛門 無言のうちに伝わるものがあったのかな。

絹谷 あまり教えなかったのがよかったようです。彼女は意外と親の言うことを聞かない。アドバイスはできるだけ“チャック”しまして、ほかの人に言ってもらう(笑)。

吉右衛門 僕らは役を教える時は一対一ですが、先生方の場合は何十人という学生を教える。授業だったらもっと多いから、大変でしょうね。

絹谷 昔の画家は塾のようなところで、吉右衛門さんのような教え方をしていたのですが、そのほうが、一人一人に目的を持って教えられる。私もイタリアでサエッティ先生の個人的な弟子をしていました。そこで経験する一つ一つが勉強になりました。今は塾が学校みたいになって、顔を付き合わせて教え、学ぶということがなくなってしまった。学校教育が空洞化している理由はそれでしょうね。

吉右衛門 カバン持ちみたいなところからやられたんですか。

絹谷 そうです。先生をプロフェッサーでなくマエストロと言う。「親方」です。

 

「これぞ」の才能に門戸を開いたら

 

歌舞伎の世界では、「世襲」が当たり前と見られている。当世、何かと風当たりの強い「世襲」。吉右衛門氏からは心強い言葉が飛び出した。

 

吉右衛門 歌舞伎もついこのあいだまで親方だったのに、今は先生とか言っちゃって(笑)。昔は種が絶えたらその家は養子をとるのが当たり前でした。三代目、四代目と続く家系の方が珍しかった。それがだんだん保守的になり、血のつながりが重んじられるようになってきた。御曹司でないと、いろいろ役がつかないみたいなことはあるんですが、これぞという才能にはもっと門戸を開いてもいいかと思います。一朝一夕には難しいかもしれませんが、そうしないと、どんどん門が狭まってしまうんじゃないかと思います。

絵画の世界は、ほとんどの方が個性を出してやられています。歌舞伎は、「親に似てきた」「おじいちゃんにそっくり」ということを喜んでいただける。そこが独特だなあと思いますけども。

絹谷 それはそれでいいですね。

吉右衛門 いい面、悪い面両方ですね。政界では世襲というものが問題になっていますね。いい面がどんどん出てくれば素晴らしいことだと思いますが、一方で、一代で名優になる方ももっといらしてもいいかなとは思いますけどね。

絹谷 『二代目』で指摘しておられるように、脇役さんも大切ですね。

吉右衛門 総合芸術でございますので、通行するだけの役でもダメだったら音符が一つ欠けるようなものです。お客様に感動を与えられるような音をみんなで出さなければならないと思います。

絹谷 今日は別の命題ができました。吉右衛門さんの役者絵です。

吉右衛門 私はいつか絹谷幸二賞を目指そうかと。えっ、年齢制限が35歳までなんですか、ああ……。

絹谷 遅かりしー!

 

きぬたに・こうじ

1943年、奈良県生まれ。東京芸大大学院を修了後、イタリアに留学。74年に当時最年少の31歳で受賞した安井賞がはげみになったことから、0835歳以下の優れた若手画家を顕彰する「絹谷幸二賞」を創設する。日本芸術院会員で東京芸大教授。

 

なかむら・きちえもん

1944年、初代松本白鸚(八代目松本幸四郎)の次男として生まれ、祖父である初代吉右衛門の養子となる。66年二代目吉右衛門を襲名。06年に毎日芸術賞を受賞。日本芸術院会員。『二代目』発売は910日。

 

司会・構成/毎日新聞編集委員 小玉祥子

 

モン・サン・ミッシェル 心の巡礼紀行④

発見

ノルマンディーは海外文化の入り口だったから

若き芸術家たちが集まったんですね

 

 

 

 印象派の画家たちの足跡は、ノルマンディーのいたるところに残っている。そもそも印象派の語源となったモネの名作『印象、日の出』(1873)は、セーヌ河口の港町、ル・アーブルで描かれたものである。 

 

 この町の『マルロ-美術館』には、ブーダン、モネ、ルノワール、デュフィといった、ノルマンディーを舞台に活躍した画家たちの作品が並ぶ。 

「それまでの画風に行き詰まりを感じた若い画家たちがこの港町に来たのは、港という場所が海外文化を真っ先に取り入れる場所だったからなのでしょう。彼らは必死に新しい何かを求めて港町に来て、日本やインド、中国やアフリカから影響を受けたのだと思います。絵画というものは、文化の先端をいく、船の切っ先のようなものですから」(幸二さん) 

 

 ル・アーヴルのセーヌ川を挟んで対岸は、町そのものが絵のようだと讃えられる港町オンフルールである。

「わあ、ここにいたら、たくさん絵が描けそうだなあ」と、幸二さん。 

 

昼食は、19世紀半ば頃、若き印象派の画家たちが根城にしていたというホテル『ラ・フェルム・サン・シメオン』へ。ブーダンやモネ、ルノワールたちが夏を過ごした農場は、今や格式の高いオーベルジュとなっている。ミシュラン一つ星を持つシェフが作る、「印象派のテーブル」というコース料理をいただいた。 

 

 食後、車で20分ほどの海辺のリゾート地、トゥルーヴィルからその隣町のドーヴィルへと足を延ばした。ここは、クロード・ルルーシュ監督の映画『男と女』(1966)の舞台。「ダバダバダ・・・」という、フランシス・レイの主題歌で知られる。浜辺には木板張りのボードウオークが、640m続いている。 

 

「ああ、この海岸で、主人公のふたりは会うんですよね。懐かしいなあ。マスタングに乗って、パリからぶっ飛ばしてきて」(幸二さん)「あの後、ふたりはどうなったのかしらね」(宏美さん)。かつての印象派が描いた海辺の風景の中を歩きながら、夫妻の思い出話は尽きない。

 

「美術が好きな人にとっては、本当に充実した旅程ですね」(宏美さん)

「僕はこの旅で印象派の意味がわかったような気がします。画家たちがアトリエを飛び出し、戸外で絵を描き始めたノルマンディーは、絵画に自由な翼を与えた場所といっても良いでしょう」(幸二さん)

 

 モン・サン・ミッシェルへの旅は、画家、絹谷幸二さんにとっても新たな発見をもたらしたようであった。

 

 

(『駱駝』2006年2-3月号/小学館)

 

 

モン・サン・ミッシェル 心の巡礼紀行③

聖地

クールベ、モネ、ブーダン-数多くの画家が描いた絶景

 

 

 モン・サン・ミッシェルをゆったりと観た後、ノルマンディーの海岸沿いの漁村、エトルタへと向かう。

 

「アモン」と「アヴァル」というふたつの断崖に左右を守られた海岸には、大西洋の荒波がひっきりなしに押し寄せる。海辺の気候は変わりやすく、海に差す陽の光、雲の速い流れが、風景を目まぐるしく変えていく。この奇岩が並ぶ海岸は、多くの画家たちに愛され、ドラクロア、クールベ、モネなどが、数々の名作を残している。 

 

 19世紀の画家たちが描いた風景の中に立ち、海の色と流れる雲を見ながら、幸二さんが言う。

「これがモネたち印象派の描いた、輝くような空と海なんですねぇ。地中海が南に広がる南仏では、太陽が南つまり正面から当たるので、波頭がギラギラ光り、海の色は逆に黒くなる。ですが、北側に海があるノルマンディーでは陽が画家の後方から斜に差すから、海の色が澄んできれいに見える。だからああいう微妙な色と光の絵が生まれたのだ、ということが、ここに来てよくわかりました」

 

 印象派の画家たちは、日本の浮世絵に影響を受け、特に葛飾北斎の波の絵は、モネのエトルタの波の描き方にも影響を与えているといわれる。

 

「実は私の曾祖父の絹谷幸二(幸二さんと同名)は、1867年のパリ万博に何百もの日本画の掛け軸を持ち込み、日本美術をフランスに紹介した人です。ひょっとしたら曾祖父の持ち込んだ日本画が、印象派の画家たちに影響を与えたかもしれないと思うと、ワクワクしてきます。奈良の我が家には、作家のアンドレ・マルローが、彫刻家のザツキンと一緒に来ていますしね」と、感慨深げな幸二さん。

 

「ホテルもゴルフ場も、歴史の重さが感じられて、素敵ですね」

と、ノルマンディーの旅が気に入った様子の宏美さんが言う。

 

 この土地を舞台にモーリス・ルブランが小説『奇巌城』を書いている。怪盗アルセーヌ・ルパンの隠れ家となった奇岩を見下ろせるアヴァルの断崖までは、海岸線から遊歩道が続き、崖上から絶景を楽しむことができる。坂道はなだらかだが、砂利が多いので、滑りにくい靴が必要だ。

 

「こんな町でひと夏、スケッチしながら滞在してみたいですねぇ。私は旅をしていると、行く先々でアトリエが欲しくなるんです。絵描きは、絵を描いていること自体、人生を旅しているという感覚ですから(笑)」

 

 

(『駱駝』2006年2-3月号/小学館) 

 

モン・サン・ミッシェル 心の巡礼紀行②

滞在

島内の老舗ホテル『ラ・メール・プーラール』

ここは、歴史を味わうための場所ですね

 

 モン・サン・ミッシェルに、巡礼者が訪れるようになってから約千年。小さな島には、巡礼者たちっをもてなす宿が数か所ある。中でも、王の門から入ってすぐ左手のホテル『ラ・メール・プーラール』は世界中の著名人が宿泊する宿として知られている。

 

 ホテル内の廊下やレストランには、英国国王エドワード7世、モネ、ピカソ、藤田嗣治、シャルル・ド・ゴール、ジョン・F・ケネディなど歴史を彩った人たちが、宿泊の記念にと残していった写真とサインが、約3500枚も飾られている。1949年6月、ノルマンディー上陸作戦に同行した作家ヘミングウェイと写真家ロバート・キャパは、上陸直後にこの店に赴き、臨時の“グルメ本部”にしていたという逸話が残る。

 

 料理を待つ間、写真を見ながら、幸二さんと宏美さんの話もはずむ。

「歴史を知らないと、ここに飾られている写真の面白さはわかりませんね。ここは歴史を味わうための場所ですよ」(幸二さん)

 

 ホテルの名物料理は、1880年から同じ作り方を守っているオムレツ。厨房では、「カシャ、カシャ、カシャ」と一日中、コックが軽快な音をたてながら、オムレツ用の卵を泡立てている。充分に泡立てた卵を暖炉で焼き上げるオムレツは、2人分で直径30cmほどもある。

 

 ほかにも、モン・サン・ミッシェル周辺でとれる帆立貝、オマール海老、カキ、ムール貝、スズキ、ヒラメなどの海の幸はもちろん、周辺の湿地帯で潮を含んだ草を食べて育った「プレ・サレの羊」は食通たちの垂涎の的である。ここブルターニュ地方では、ワインより、リンゴから作られて発泡酒シードルを味わいたい。

「初めて飲んだけれど、軽くて美味しいね、ママ」と陽気な幸二さん。

 

 湾に面した部屋の窓からは、潮の満ち引きを眺めることができる。

「ここに宿泊していると、まるでタイムスリップしたみたいな気持ちになりますね」と宏美さん。 

 歴史と美食が渾然一体となって、旅に彩りを加えてくれる宿である。

 

(『駱駝』2006年2-3月号/小学館)

 

 

 

モン・サン・ミッシェル 心の巡礼紀行①

 

探求

 

ロマネスク、ゴシック-千年に及ぶ

~教会建築が積み重なった“西欧の驚異”~

 

 ノルマンディー地方とブルターニュ地方の境に位置するモン・サン・ミッシェルは、パリから車で約4時間のところにある。昼過ぎにパリを発ち到着した午後6時には、すっかり日が落ちライトアップされていた。

 

 絹谷幸二さんと宏美さん夫妻は、27歳と19歳のときに結婚。その後、夫婦でイタリアへ留学した。

 

「学生時代は休みのたびに、レンタカーを借りて、イタリア国内をあちこち回りました。週末には夜行列車でパリまで行ったりもしましたね。」

 

 画家という仕事がら旅行が欠かせないこともあり、4人のお子さんにも恵まれてからも、夫婦の旅はとぎれることなく続いた。ヨーロッパへの旅行は数えきれないほどしてきた夫妻だが、モン・サン・ミッシェルを訪れるのは今回が初めてだという。

 

 1979年にユネスコの世界遺産に登録されたモン・サン・ミッシェル(聖ミッシェルの山の意)の歴史は、西暦708年にまでさかのぼる。その年、オーベル司教が大天使ミカエル(仏名ミッシェル)から啓示を受け造った小さな礼拝堂は、10世紀にベネディクト派の修道院になる。11世紀には、岩山の頂点に人口基盤を作り、その上にロマネスク様式の修道院付属教会ができた。

 

 さらに、13世紀には最も美しい一角、「ラ・メルヴェイユ」(西欧の驚異)と呼ばれるゴシック様式の建物が増築された。その後も戦火による破壊、修復、増改築が繰り返され、現在の姿に完成したのは15世紀の終わりとも16世紀の初めともいわれる。

 

 午後8時20分。ちょうど満月にあたるため、もっとも激しい上げ潮を見られるとあって城壁へ登る。はるか彼方の海外線から、みるみるうちに潮が満ち、あっという間に干潟は海に没し、島は水に取り囲まれた。

 

「これはこの島に泊まらないと見ることができない光景ですね」

 夫妻は寒さを感じさせないかのように、月夜の散策を楽しみ、俳句を詠んだ。

 

「たえかねて 海に帰りし 満月古城」「満月に モン・サン・ミッシェル 天をさす」-絹谷幸二

 

 (『駱駝』2006年2-3月号/小学館)