「水の星なればこそ・・・。」
2005年 ≪愛・地球博-共生-≫ 200号
もしも宇宙遥か彼方から、地球という星の名古屋万博を望遠鏡で見つめる人がいたとしたら、
此処こそが天国ではあるまいかと思うに異いなし。
同様に津島天王宵祭の夕暮れ時、水に映る光彩のきらめきと太鼓や笛、
人々の歓喜と、悦び集う姿を見れば、浄土はまさに此処にありと思うのではないだろうか。
ことほど左様に科学がいかに発達し、
電子望遠鏡が宇宙中をなめまわしたとしても、
この地球以外、他に水面に映る光と人々の歓声を聞く星は皆目ないのだ。
だとすれば、それぞれの人々こそ、この時この場こそが天国であるといっても過言ではないはずだ。
我々の季節はこれから梅雨に向かい、いやでも水浸しとなり、
嫌だ嫌だと言いながら、稲は育つし、果実はたわわな実の中に水分を引き上げて来られるのだ。
夏の暑さはさておき、秋にはまた収穫の笛や太鼓が喜びを告げるだろう。
緑のある恵まれた自然。 水気あふれる山河。
この天国を砂漠と、繰り返す戦争の末の月世界にしないためにも、
愛・地球博・共生のコンセプは素晴らしく、これこそ我が瑞穂の国が世界に打ち鳴らす、
生きとし生けるものへの愛の警笛なのだろう。
時折台風や地震には見舞われるが、いずれやがて我々はそのエネルギーを有効に利用する側に回れる日も来るだろう。また、我々と正反対の砂漠に住む人々にとっても、その地は大変条件が悪いとはいえ、住めば都。
人々の智恵はやがて緑の約束された土地へと変貌を遂げよう。楽観的に過ぎるかもしれないが、ダ・ヴィンチが考えたほどの絵空事の想像力を発揮する天才が現れて、時代はさらにバラ色の世紀へと進歩するに違いない。
(アート・トップ 2005年7月号 No.204掲載)
「画家たりといえども・・・。」
1998年 ≪あ・あ・あ・ん≫ 発泡スチロール 170×165×30cm
画家たりといえども彫刻を試みんとて、ノミならぬニクロム線に熱線を通して発泡スチロールをうがってみる。いまにも壊れそうなスチロールを使用するなどとは、永遠に残る作品を作る者にとってはちょっと無謀の極みなのだが、そこは本業画家である私の気軽さ、軽率さか…。
スチロールは最早欧州ドイツではフロンガスを出す代物として、運送用の緩衝物としても使用禁止と聞き及んでおり、かの地の地球防衛のための環境破壊への真摯な取り組みに対していたく感動しながらも。ここは一つお許し願う。
そして、こじつけるなら今日現在、この様な発泡スチロールなるものが、二〇〇四年に存在した証を作品として残しておいてみようという魂胆有りとするか。はたまた我が国の地球環境保全の為の、発泡スチロール放任主義対策の遅れの時間差を利用した、画家の社会的道義の間隙をぬう作家魂か…?
とにかく、絵の制作の合間をぬって、かつて古代人がアルタミラ洞窟に突き出る岩石の立体を利用して、牛の腹を描いたように、平面が望む立体への渇望を私も古代人にならって試してみたかったのではあった。
(アート・トップ 2004年11月号 No.200掲載)
>>日本語へ
1998 “Ah, ah, ahn” Styrofoam 170cmx165cmx30cm
I wanted to paint on a three-dimensional surface, just like the cavemen who painted bulls on the rough cave walls. I decided to use Styrofoam for this project carving the material with a hot wire.
The material is so frail and for an artist who’s purpose is to make ever-lasting pieces,
people might consider me as thoughtless.
Styrofoam is banned in Germany due to the poisonous gas emitted from the material.Countries all over the world are following Germany and support the ban to stop environmental destruction.
Please forgive me just this once for using Styrofoam.
I have good reason for using this material. I want to prove, for future generations, and show my work as an artifact that such a material existed.
I also wanted to show my concern, to my country, regarding the time taking Japan to do the same as Germany to ban Styrofoam.
(Art Top November, 2004 No.200)
「ご法度」
1995年 左≪あ≫13cm 中≪裸婦≫16cm 右≪旭日富岳≫13cm すべて九谷焼
「陶器は絵描き殺し」につき、手出し無用のこと。が、この十数年間ほど石川県九谷焼センターに絵付けのためのデッサン講師として毎年出掛けていて、そのかたわら自身も遊び半分で陶器に絵付けをしては楽しんでいるのだ。
「陶器にさわるな、近づくな」(絵よりも生活費稼ぎになる)というのが、我が芸大の恩師・故島村三七雄教授のアドバイスであった。
「陶器は絵描き殺しであるから、ゆめゆめ、画業中途で手出しはならぬ」という師の教えであった為、私は長年陶器とはつとめて無縁を装っていた。
しかし、私の陶器好きは学生時代からであって、我々夫婦の仲人・正田建次郎先生とご一緒に益子の浜田庄司先生を訪ねさせていただいたり、若き日の島岡達三先生にご教授願ったりと、密かに師には内密に手出しを続けていた。
つくづく私という人間は子供の頃から型破りであり、「へんこつ」であって、人が止めたらやりたがるという、悪い性格の主だったように思う。同じ島村先生が、「黄色という色は”蝶々が飛ぶ”のでむやみに用いるな」とご忠告して下されば、逆らうように黄・赤・緑をふんだんに用いるなど、生徒としては実に「言うことを聞かぬやつ」だったのだ。
また、小磯良平教授には色面と色面がぶつかる所に、線を引くのは「くどい」と言われていたが、その後その逆ばかりで今日の画面ができあがったように思える。
ことほど左様に私は先生の意見を聞かない悪い生徒であり、反省の日々。恩師に深くおわびをしつつも、なおかつ我が道を行く気概に燃えて、手出しならぬ陶器を「遊び」と称してさわり続け、またまた色面の輪郭に横山大観も捨て去った古代につながる日本の骨線を引き続けている。
(アート・トップ掲載)
>>日本語へ

1995 Left “Ah” 13cm, Middle “Nude” 16cm, Right “Asahikugaku” 13cm All Kutan-yaki
I have avoided making ceramics because “ceramics kills a painter”.
But, for the past decade or so, I have been an instructor at the Ishikawa prefecture
Kutaniyaki Center to teach people how to sketch and paint on ceramics.
I have been secretly enjoying the painting on ceramics myself while teaching at the center.
“Do not go near or touch a ceramic,” (you can make more money in ceramics than in painting) and “ceramics kills a painter so do not even try to think about it,” are what my mentor, Prof. Shimamura Minao, advised me. These are the reasons why I have been avoiding cermaics for a long time.
Ever since I was a child I never listened to what others told me.
When they said “No,” I went ahead and did it. During Prof. Shimamura’s class, he would tell, us, the students not to use the color yellow because it makes the butterflies fly. But being who I am, I went ahead and used yellow, red, and green in my paintings and got scolded by him.
In another class Prof. Koiso Ryohei told us not to draw a line in between colors where they clash but my I did it anyway. This rebellious attitude made me the person who I am now.
I feel regretful for my attitude towards my professors and must apologize but this is my way of expression passion towards art. Knowing that I must not go near a ceramic, I make an excuse by doing it for fun, not as a professional, and continue to draw lines between colors just like our ancestors.
「裸婦クロッキー」
2003年 ≪双≫ 鉛筆・水彩・紙 51.9×72.9cm
裸婦クロッキーする時ほど心休まる時はない。紙に水彩という手軽さもあり、描いた作品を公表するということもまれで楽しみながら気軽に描いてゆく。
質感や量感、調子やムーブマン、強・弱や感情の動きといった絵画の主なエッセンスが山積している上に、それよりもなによりもモチーフは裸婦なのである。月の2、3回のクロッキーは私の体内のアドレナリンを高揚させ、生活のリズムをととのえてくれるのだ。
芸大の学生時代から休むことなく続けているこの裸婦クロッキーは習い性ともなって自然体で手は動いていく。しかも裸のクロッキーは「絵画の基本と本質とは何か」ということを痛いほど教えてくれるのだ。
絵画の本質とは大袈裟だが、それは・・・・・・、いかにも魅力的な素っ裸の美女を目の前にしても、手で触れたり、触ってはいけないのが基本なのだ。
つまり美術館なのでも「作品に手を触れないで下さい」と禁止しているが、描く画家も実は作品には手で触れてはいない。ハンド・ペインティングならいざ知らず、筆やペインティング・ナイフを使う画家は、陶芸家や彫刻家とは異なり、作品を手で触れての触覚というものはない。
モデルに対しても同様に眼で見ているだけ。心で思って手出し出来ないという色即是空。これが絵画、こと平面絵画の本質だということも出来るだろう。したがって絵は絵空事の世界であり、富士山や水、花、鳥を描いても触れることのできないイメージや夢や色彩の世界。天国があるといった心の世界であるがゆえに奥深く、つかめるようで手に触れることの出来ない「物」から遠く離れた仮想の空間なのだ。ああ・・・・・・。
ああ、無念とも言えるのだが、もしそのモデルに触れれば楽しい物語でも始まるのであろうが、それは出来ないプラトニックな心の世界。いみじくも奈良東大寺の華厳心経は語っていて「もし仏というものがどの様なものかとたづねられれば、それはうまい画工のようなものだ」と説いている。ああ、再び無念。無想か、ああ・・・・・・。
(アート・トップ掲載)
「人の顔」
1977年 ≪蒼空のある自画像≫ 油彩 194.3×259.5cm
芸大の学生時代、いやそれ以前から人体ことに人間の顔を描き続けて久しい。今日もつきぬ魅力を感じて、このテーマは延々と続き私から離れることが無いのだが、なぜこれほどまでに人の顔とは愉快でもあり、悲しくもあり、静止していながら表情は動き、ゆらめく不思議な生命体の一部分なのだろうか。まさにフラクタル、全体を表わし読み込める部分だからだろう。人を描きつつ自身の内面が引きずり出され、対峙する瞳と瞳の深淵にある対象の人物がお互いに呼吸し合っている。
卒業制作の自画像、ご依頼の肖像画、冬季オリンピックの銀嶺の女神、安井賞受賞作アンセルモ・アンセルミの肖像、時代時代の巨大な自画像、羅漢像その他、私の作品群の中では筆の止まることを知らないほど人物像が出現する。それは、人間というものが何者であるのかを知りたいと望む私自身の探究心のなせる業なのか、あるいは私の細胞の望むところなのかは知らないが、とにかく、飽きることなく人間を追い続けている。なぜ描くのかというその答えは未だに見出せないのだが、近頃少し気になることが出て来た様だ。それは、単純なことだが、なぜ人はこうも誰が誰と識別出来るほど形や皮膚、目の大小や備え付けの位置など、かくも微妙に違っているのかおいうことなのだ。世界に2、3人は本人と似ている人がいると言うのだが、これほどまでに人がいて、そっくりさんというのは、なかなか見つけられないものでもあるのだ。このことは言わば何ら疑問を持つことではないのだが、しかし、重大な問題をはらんでいるのではないだろうか。
いうまでもなく、もし人が皆同じ顔をしていたら、メダカの様に結構そっくりであったら大問題だ。お互い変わっているということ、実は大変幸福な事で大切な事なのではないだろうか。進化の螺旋階段を下りて行くということになったら、はたして種の中の個の多様性、見分けがつくほどの個性が備わるだろうかと思うにつけ、もし同じ服や同じ考え方が社会の大半になった時、それはある種の共同体となるが、個性を消されたうごめきの無い一団となって、生存の危機的状況を作るのではないだろうか。それはアポトーシスにも通じる恐怖である。
その様な思いを秘めつつ、絵画でいう個性の創造ということの重要性を、描きつつ噛みしめている今日この頃ではある。
<注:アポトーシスは元来形態学的に定義された概念であり、細胞懐死(ネクローシス)と対照的な細胞死の過程である。アポトーシスに陥った細胞は収縮し、核が濃縮し断片化していく。断片化した核は細胞膜に包まれ、アポトーシス小体が形成される。そしてそれは食細胞により処理される。この過程は一連の遺伝子により制御され、エネルギーを消費し能動的に遂行される。>
(アート・トップ 2004年3月号 No.196掲載)
「天空の菩薩などを描いてみる」
2003年 ≪天空ガンダーラ追想≫ ミックス・メディア 162.1×130cm
前世紀ニーチェが”宗教は死んだ”と言って以来、世の中は何となく分厚さが無くなって、”この世”の話ばかりが世間を歩き始めた。科学全ての正体を暴露したのだろうか・・・・・・。あの世の話は古臭く因習に満ちてほとんど”うそ”に近い存在と成り下がってしまったのだろうか。
そこで、富嶽に龍などを描いてみる。そして今さらに、天空に菩薩と月下の吉野山などを描いてみた。絵空事ゆえ、いかように描いても、科学や社会に対して責任などという厄介なものを持つ必要も無い。絵画の世界には本当に自由という翼がある。自由自在、ピカソであれ、菩薩天空であれ、時間や空間・言葉や国境の障害は無い。限りなく”うそ”に近い絵空事の世界であり、手で触れることもできない平面状の無限の空間なのだ。
天国や地獄があるというまことしやかな発想や、鯉が天に昇り、しだいに龍の顔になっていくなど、荒唐無稽な話も実に楽しいではないか。天空に菩薩が出現し、あの世には桜咲く天国があるという思いも。思いが現実の形となって、天空を行く地球そのものこそが実は天国であると考えてみれば、うそのような夢が現実とすり変わり、転衣して実に楽しい発想となりうるのではなかろうか。
ニーチェが言って滅んでしまったと思われたあの世の世界と相いれないと考えられた科学や物の世界が、”信じる”というキーワードで結ばれ、戦いに明け暮れた前世紀の衣を脱いで、新しい地球を創造する二十一世紀と今後はなるべきなのだろう。(注:「転衣」(てんね)は衣を脱いで、急にぱっと変わるという宗教用語)
(アート・トップ 2003年11月号 No.194)
「花や鳥は・・・」
2002年≪生命・花≫ ミックス・メディア 60.6×72.7cm
花や鳥はあまりにも美しいので、若い頃の私は意識的に目をそむけ、描くことを遠慮してきたように思う。彼らの美しさに比べたら、私自身の描く絵などは足元にも及ばないという恐れがどこかに有ったように思う。花鳥は遠くにあって想うもの・・・・・・であったのだ。しかし、私も彼らと同様のアートパフォーマンスをする芸術家として、そろそろ仲間に加えてもらおうかな・・・・・・と近頃思えるようになってきた。加齢のせいか・・・・・・。
本年1月24日をもって還暦に達した。花と同様、赤色のマント(チャンチャンコ)所有者となったのだ。花の心はまだしかとわからないのだが。40歳の頃、花や鳥、猿や魚、自然をもふくめて人間以外の全ての者は実はその身体をして支持体とする芸術表現者だということは薄々感じていた。彼らが作りだす美は人間が描く弱々しい芸術作品ではなく、生命、命、生存がかかった必然の戦いの中でのリスクティキングそのものであるという重さも知っていた。だから不用意には踏み込めなかった。色彩・形・ムーブマン・量など人間のことは芸大学生時代から打ち込んできた。秋の独立本展に於いてもこの何十年間モチーフはすべて人間であったし、人間を描くことによって人間を知ろうと心がけてきた。いよいよ花か。いよいよ鳥か。という所にさしかかっている。
ギリシャ以来人間中心主義の気風は人間のヒューマニズムという形をとって全世界に広がっている。しかしその結果、人類が打ち立ててきた哲学はこれで良かったのだろうか。視点を変えれば間違いだらけだったのではないのだろうか。これからは花や鳥に聞かなければならないだろう。
花や鳥は描かれても描けないだろうとたかをくくっていたが、その心の美もふくめて、美とは生存権なのだよと言っている花鳥を師として、その本質を聞き出さなければならない時代にさしかかってきたと言えるのだろう。
(アート・トップ 2003年2月号 No.190掲載)
1998年 55歳 ≪日月黄金雲上富士≫
1998年 「愛の翼 絹谷幸二展」(日本橋高島屋、他で開催)に出品。
ミックス・メディア 181.1×259cm
つくずく、紙や画布という平面に、富士や龍などを描くという絵画の世界というものはいったいどの様な世界なのだろう。古来連綿と続くこの描くという情熱は、とだえたこともなければ忘れさられた事もない。
あり様もない架空の動物を天空に飛翔させ、重量・体積のばく大な富嶽というものを軽々しい一枚の画布に描く。“絵空ごと”とはよく言ったものだが、いわば科学では容易に解明できない“虚”、または“空”、あるいは“うそ”とも夢ともいわれて点数などという理知の世界では量りようもない代物の様だ。
又、このいわく、不可解なたとえばつかみがたい色彩においても、電灯や、陽の光がなければ瞬時に無くなり、体積のない平面では手で触れることも出来ないのだ。このいわく言いがたい絵画の世界こそ複雑系であるのだろう。神や仏といった手にとってつかむことの出来ない世界ゆえ、人類はそれが何かを手に取ってつかみたい為に新らたな発見や意欲をかきたて、連綿と今日まで描く情熱を培って来たのではないのだろうか。
つまり、考え方を転じれば、私たちの眼前に巨大な体積として立ちはだかっているはずの富士の山も谷も、画面に写し取られた富士山同様、宇宙、年月時間の前では虚に等しく、天空に舞う地球というやぶれやすい人体の皮フに等しいたぎる煉獄の肉体の血潮を宿したごく紙の様に薄い地核、表皮であり、この上もない絵画の様な微妙なバランスで虚空にうかんでいるシャボン玉の様な存在なのかもしれない。
(アート・トップ 2004年1月号 No.195掲載)
1971年 28歳 イタリア留学
1971年3月 新鋭選抜展(日本橋三越本店)に、《記憶の跡》を出品、優秀賞を受賞。
その後、イタリアに留学し、ヴェネチィア・アカデミアに入学。
ブルーノ・サエッティ教授のもとでアフレスコ古典画法および現代アフレスコ画の研究に取り組む。

『身体が空中に・・・・・・・。』
身体が空中に浮遊することなど、スーパーマンか孫悟空でもないとできないことだが、私は時折ふと世間から浮き上がることがある。一九七一年三月、ヴェネツィア・サンタルチア駅に初めて降り立った時の経験は今日でも鮮明に思い出される。
当時私は新婚の妻を伴い日本を発って二日目、ミラノから列車でヴェネツィアへと向かった。長旅の疲れもあったのだろうか、暗い駅舎を出て運河手前の階段上で、私の身体は確実に三〇センチメートルは浮き上がった。人もまだ動植物の域を脱していないのか・・・・。モモンガ状態となって、一瞬だが、重力が空中に放電し、合気道の気に触れたのか、訳の分からない力が私を押し上げた。
学生時代からスキューバダイビングで透明なケラマの海や、モルジブで水中の断崖絶壁を滑空していることもある。水に支えられていることも忘れるほどに中性浮力に慣れ親しんでもいる。その残像が突然現れたのか、はたまた、夢では時々浮き上がり、天空を滑空していることもあるので、この時夢と現実が混濁したのかも知れない。兎に角、浮いたのであった。
このことがあって以来、私の画業に於ける筆致は色彩を得て、自在に動くようになった。かって私をつなぎ止めていた我が国の美風といわれる勤勉さや、自己犠牲、因縁や、一生懸命頑張るといった悲壮感から抜けだし、それ以上の自由闊達な衝動が身を包むようになった。
まさにイタリアの気風が私をとりこにした瞬間だった。
(アート・トップ 2005年1月号 No.201掲載)






