「人の顔」
1977年 ≪蒼空のある自画像≫ 油彩 194.3×259.5cm
芸大の学生時代、いやそれ以前から人体ことに人間の顔を描き続けて久しい。今日もつきぬ魅力を感じて、このテーマは延々と続き私から離れることが無いのだが、なぜこれほどまでに人の顔とは愉快でもあり、悲しくもあり、静止していながら表情は動き、ゆらめく不思議な生命体の一部分なのだろうか。まさにフラクタル、全体を表わし読み込める部分だからだろう。人を描きつつ自身の内面が引きずり出され、対峙する瞳と瞳の深淵にある対象の人物がお互いに呼吸し合っている。
卒業制作の自画像、ご依頼の肖像画、冬季オリンピックの銀嶺の女神、安井賞受賞作アンセルモ・アンセルミの肖像、時代時代の巨大な自画像、羅漢像その他、私の作品群の中では筆の止まることを知らないほど人物像が出現する。それは、人間というものが何者であるのかを知りたいと望む私自身の探究心のなせる業なのか、あるいは私の細胞の望むところなのかは知らないが、とにかく、飽きることなく人間を追い続けている。なぜ描くのかというその答えは未だに見出せないのだが、近頃少し気になることが出て来た様だ。それは、単純なことだが、なぜ人はこうも誰が誰と識別出来るほど形や皮膚、目の大小や備え付けの位置など、かくも微妙に違っているのかおいうことなのだ。世界に2、3人は本人と似ている人がいると言うのだが、これほどまでに人がいて、そっくりさんというのは、なかなか見つけられないものでもあるのだ。このことは言わば何ら疑問を持つことではないのだが、しかし、重大な問題をはらんでいるのではないだろうか。
いうまでもなく、もし人が皆同じ顔をしていたら、メダカの様に結構そっくりであったら大問題だ。お互い変わっているということ、実は大変幸福な事で大切な事なのではないだろうか。進化の螺旋階段を下りて行くということになったら、はたして種の中の個の多様性、見分けがつくほどの個性が備わるだろうかと思うにつけ、もし同じ服や同じ考え方が社会の大半になった時、それはある種の共同体となるが、個性を消されたうごめきの無い一団となって、生存の危機的状況を作るのではないだろうか。それはアポトーシスにも通じる恐怖である。
その様な思いを秘めつつ、絵画でいう個性の創造ということの重要性を、描きつつ噛みしめている今日この頃ではある。
<注:アポトーシスは元来形態学的に定義された概念であり、細胞懐死(ネクローシス)と対照的な細胞死の過程である。アポトーシスに陥った細胞は収縮し、核が濃縮し断片化していく。断片化した核は細胞膜に包まれ、アポトーシス小体が形成される。そしてそれは食細胞により処理される。この過程は一連の遺伝子により制御され、エネルギーを消費し能動的に遂行される。>
(アート・トップ 2004年3月号 No.196掲載)
1997年 54歳 ≪銀峯の女神≫ 長野冬季五輪公式ポスター
長野冬季オリンピックの大会公式ポスターを委託され、
≪銀峯の女神≫他7種競技別ポスター原画を制作。
顔彩・カンヴァス 90.9×72.7cm
近代オリンピックの提唱者・クーベルタン男爵は、
オリンピックを「スポーツと芸術の祭典」と位置付けました。
スポーツには今日、多くの光があたっていますが、
絵画という空想の世界によるスポーツも大切な一分野だと思います。
人間は生まれながらに鳥のように飛べず、魚のように泳げず、
美しい体の紋様も鱗も羽も無い“ずんべらぼうのずるむけ”で、
雨に打たれて手は震え、蚊にもさされてしまいます。
劣等感の塊のような存在である人間
しかしこのほかの動物には無い劣等感が今日の人類の繁栄をもたらしたと私は思います。
花や鳥は自身の体をキャンバスにし美しい羽や色彩豊かな花弁を作る“芸術家”といえます。
いま私はスポーツの絵を、体ではなくキャンバスに描き、
花や鳥、魚など自然の仲間入りをしたいと思いました。



