作品<年代別>
◆20代(1963~1972)
◆30代(1973~1982)
アンセルモ氏の肖像(31) 第17回安井賞
アンジェラと蒼い空Ⅱ(34) 文化庁買上
◆40代(1983~1992)
◆50代(1993~2002)
◆60代(2003~2012)
◆20代(1963~1972)
◆30代(1973~1982)
アンセルモ氏の肖像(31) 第17回安井賞
アンジェラと蒼い空Ⅱ(34) 文化庁買上
◆40代(1983~1992)
◆50代(1993~2002)
◆60代(2003~2012)
2005年 ≪愛・地球博-共生-≫ 200号
もしも宇宙遥か彼方から、地球という星の名古屋万博を望遠鏡で見つめる人がいたとしたら、
此処こそが天国ではあるまいかと思うに異いなし。
同様に津島天王宵祭の夕暮れ時、水に映る光彩のきらめきと太鼓や笛、
人々の歓喜と、悦び集う姿を見れば、浄土はまさに此処にありと思うのではないだろうか。
ことほど左様に科学がいかに発達し、
電子望遠鏡が宇宙中をなめまわしたとしても、
この地球以外、他に水面に映る光と人々の歓声を聞く星は皆目ないのだ。
だとすれば、それぞれの人々こそ、この時この場こそが天国であるといっても過言ではないはずだ。
我々の季節はこれから梅雨に向かい、いやでも水浸しとなり、
嫌だ嫌だと言いながら、稲は育つし、果実はたわわな実の中に水分を引き上げて来られるのだ。
夏の暑さはさておき、秋にはまた収穫の笛や太鼓が喜びを告げるだろう。
緑のある恵まれた自然。 水気あふれる山河。
この天国を砂漠と、繰り返す戦争の末の月世界にしないためにも、
愛・地球博・共生のコンセプは素晴らしく、これこそ我が瑞穂の国が世界に打ち鳴らす、
生きとし生けるものへの愛の警笛なのだろう。
時折台風や地震には見舞われるが、いずれやがて我々はそのエネルギーを有効に利用する側に回れる日も来るだろう。また、我々と正反対の砂漠に住む人々にとっても、その地は大変条件が悪いとはいえ、住めば都。
人々の智恵はやがて緑の約束された土地へと変貌を遂げよう。楽観的に過ぎるかもしれないが、ダ・ヴィンチが考えたほどの絵空事の想像力を発揮する天才が現れて、時代はさらにバラ色の世紀へと進歩するに違いない。
(アート・トップ 2005年7月号 No.204掲載)
ミックス・メディア 194×254.5cm
これは、キリスト教の「神を信じるか、信じないか、
Yes or No をもっともシンプルに答えよ」という、聖書の一節からきている。
私達の東洋の世界では、Yes or No の他に、YesとNoの間が存在している。
私達は、そのないまぜになった世界で生活したせいか、
即座にYesまたはNoといった決定的な言葉をかえす習慣をもっていなかった。
それが、私にとって大変なカルチャーショックであった。
しかし、この次の世紀はかえって、そのファジーなYesとNoの間の世界、
白黒をつけない世界、つまり融合する世界、すべてが許しあえる世界、
そんな世界が世界のあらゆる紛争を防ぐのではないかと思っている。
悪人も善人も来世では、地獄に落ちるのではなく、
そのすべての人が救われるといった世界が構築できないか、などと思っている。
・20代 <蒼の間隙> <諧音の詐術> <諧音の跡> <りんご飛行>
・30代 <アンジェラと蒼い空Ⅱ> <アンセルモ氏の肖像>
・40代 <チェスキーニ氏の肖像> <木霊・祈り> <Yes or No>
・50代 <銀峯の女神> <日月黄金雲上富士> <蒼穹夢譚>
・60代 <自画像・夢> <潮音・ヴェネツィア日の出> <きらきら渋谷>
1977年 ≪蒼空のある自画像≫ 油彩 194.3×259.5cm
芸大の学生時代、いやそれ以前から人体ことに人間の顔を描き続けて久しい。今日もつきぬ魅力を感じて、このテーマは延々と続き私から離れることが無いのだが、なぜこれほどまでに人の顔とは愉快でもあり、悲しくもあり、静止していながら表情は動き、ゆらめく不思議な生命体の一部分なのだろうか。まさにフラクタル、全体を表わし読み込める部分だからだろう。人を描きつつ自身の内面が引きずり出され、対峙する瞳と瞳の深淵にある対象の人物がお互いに呼吸し合っている。
卒業制作の自画像、ご依頼の肖像画、冬季オリンピックの銀嶺の女神、安井賞受賞作アンセルモ・アンセルミの肖像、時代時代の巨大な自画像、羅漢像その他、私の作品群の中では筆の止まることを知らないほど人物像が出現する。それは、人間というものが何者であるのかを知りたいと望む私自身の探究心のなせる業なのか、あるいは私の細胞の望むところなのかは知らないが、とにかく、飽きることなく人間を追い続けている。なぜ描くのかというその答えは未だに見出せないのだが、近頃少し気になることが出て来た様だ。それは、単純なことだが、なぜ人はこうも誰が誰と識別出来るほど形や皮膚、目の大小や備え付けの位置など、かくも微妙に違っているのかおいうことなのだ。世界に2、3人は本人と似ている人がいると言うのだが、これほどまでに人がいて、そっくりさんというのは、なかなか見つけられないものでもあるのだ。このことは言わば何ら疑問を持つことではないのだが、しかし、重大な問題をはらんでいるのではないだろうか。
いうまでもなく、もし人が皆同じ顔をしていたら、メダカの様に結構そっくりであったら大問題だ。お互い変わっているということ、実は大変幸福な事で大切な事なのではないだろうか。進化の螺旋階段を下りて行くということになったら、はたして種の中の個の多様性、見分けがつくほどの個性が備わるだろうかと思うにつけ、もし同じ服や同じ考え方が社会の大半になった時、それはある種の共同体となるが、個性を消されたうごめきの無い一団となって、生存の危機的状況を作るのではないだろうか。それはアポトーシスにも通じる恐怖である。
その様な思いを秘めつつ、絵画でいう個性の創造ということの重要性を、描きつつ噛みしめている今日この頃ではある。
<注:アポトーシスは元来形態学的に定義された概念であり、細胞懐死(ネクローシス)と対照的な細胞死の過程である。アポトーシスに陥った細胞は収縮し、核が濃縮し断片化していく。断片化した核は細胞膜に包まれ、アポトーシス小体が形成される。そしてそれは食細胞により処理される。この過程は一連の遺伝子により制御され、エネルギーを消費し能動的に遂行される。>
(アート・トップ 2004年3月号 No.196掲載)