【アートな匙加減】暗い時代も「善しあし半分」(2010年3月21日 産経新聞掲載)

きょうは春分の日。もうすぐ新年度でもあり、何か楽しい話題はないものかと探してみたが、一向に見つからない。世間には暗い話やおぞましい事件が山積で、われわれの頭もどうやらそれらのニュースに洗脳され、芯(しん)から明るくなれない体質にならされているのかもしれない。

 わが国の体質には、「善しあし半分ずつ」という習性がある。島国に生まれ育ち、徳川300年のしつけがいまだに効いていると思ってもよい。向こう三軒両隣に注意して過ごす連帯責任の体質が、縮こまった社会の基を作ったか否かは、社会学者でもない私には不明だ。しかし、身を縮めて生きる過ごし方は、島内の平和をつくってきたともとれるし、バネのように今後の伸びしろがあると良い方に理解してもよい。ここで大切なのは、どのような苦難を前にしても悪く悲観的にとらえないことの方が大切だということだ。

 酒は体に悪いことばかりではなく、百薬の長でもあり、多少深酒してもたまには血液を新たに洗うこともある。せき止めダムのように、水を少しずつ流していては、川が一見、清流のように見えても、石を転がし川を洗い、積年のアカやぬめりを取り再生することにはならない。

 政治や経済においても、この苦しいときこそチャンスであり、待ってましたとばかりの気風でそのときの状況を自在に活用するに越したことはないだろう。かつての1930年代、米国のフーバー大統領は苦しむ絵描きに塩を送り、大いに絵を描かせたと聞く。社会は大変苦しいときだったが、絵描きは本来、社会とかけ離れているため生活は苦しい。絵を描くことなど絵空事の世界だ。何の役にも立たないと思われがちだが、わずかな絵の具代とキャンバスで夢を画布に写し出せる魔法のような楽しさが絵の世界にはある。

 私とて学生時代、自身の内なる不況と貧しさは並大抵のものではなかった。かなりの瀬戸際が続いたが、一度たりとも生活が苦しいと思ったことはない。画中に熱中していれば、たとえそこに砲弾が飛んでこようと、自由の翼が画面の至る所に存在し、百万通りもある色彩の配列、調子、量感や質感、動き、空間の奥行きや創造上の新発見にうつつを抜かすことができるからだ。

 かつてフーバー大統領が行った画家への救済と投資という創造の夢は、その後のアメリカン・アートと米国の国力の飛翔に目には見えない希望と活力を与えたのである。

 時は春、すべての樹木は冬の寒風から目覚め、再生し、鳥は歌い、水はゆるむ。

 ハード面は、ばらまき政治のおかげでほぼ整った。これからはアートやミュージックといったソフト面の充実に期待したい。例えば旅行をするにしても、その旅が旅行者にとっていかに楽しいものだったかと思わせる術が必要だ。

 出発前から「列を乱さずに並んでください」とか、「危ないですから注意してください」とマイクで再三がなり立てているようでは、その会社の責任を回避しようという浅はかさばかりが目立ち、楽しさに水を差すようなものだ。

 そこにミュージックが流れ、花や絵があればなお良いことだろう。(きぬたに こうじ)

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